生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
摂理史に現れたアベル・カイン
牧会者の道 八三六
統一教会の信徒はアベルにならなければならないでしょう? (はい)。それでは皆さんはアベルになりましたか、なっていませんか? なっていっているのかどうか分かりませんが、頭をもたげて「既成教会の牧師がなんだ? 堕落がどうしてなったって? なに、善悪の果を食べてなったって? 牧師であるあなたたちも、こういう問題は知らないではないか?」と言いながら驕慢に振る舞うことは、殴られて死んだアベルの行動と同じことです。そうしていたら統一教会は難しくなります。皆さんがそうしましたか、しませんでしたか? 先生は「どうかそうしないでくれ」と言ったのに、皆さんは外に出ていって、そのようにして歩いたというのです。(三四―二七二)
カインとアベルが供え物をささげたのち、アベルの供え物だけを神様が受けられたことを知ったカインはアベルを憎み殴り殺しましたが、ここには、カインとアベルが供え物をささげるために準備をする時からアベルを憎む心があったことを皆さんは知らなければなりません。カインは、神様が自分の供え物を受けられないので瞬間的にアベルに対する憎しみがわいて彼を殴ったのではなく、そのことにぶつかる前からアベルが憎くて殴り殺したい心がカインにあったというのです。
そういう堕落性の血統を受け継いだ今日の皆さんが、宇宙的な嘆息の峠を越えるためにはどうしなければならないのでしょうか。これから皆さんは、神様に不信と争いの条件を成立させる祭壇を積むのでなく、父の栄光を紹介し、父に喜びと栄光を抱かせてあげることのできる勝利的なアベルの祭壇を積まなければならないのです。
ですから、今日皆さんの生活はただ皆さん個人に局限される生活ではありません。全体を身代わりした生活だというのです。皆さん個々人が父の前に身をかがめるその時間なら時間、み旨を中心にして暮らす生活ならその生活が、直ちにその時間と生活でとどまるのではありません。そこからカインの立場なのか、アベルの立場なのかという二股道が決定するのです。すなわち、今日皆さんはひょっとすればアベルになり、ひょっとすればカインになることができる、ものすごい歴史的な瀬戸際の道に処しています。
そういうことを知って、もう皆さんは教会を中心に誰がアベルで誰がカインであるかを分別することができなければなりません。二人の人がいれば必ず一人がアベルで一人がカインであること、三人の人がいれば二人がアベルになることができます。また、カインにもなることができますが、一番中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんが確実に分別することができなければならないのです。
そして、そのカインとアベルが一つにならず別れていてはなりません。一方は右手で一方は左手なのです。そのため誰でも私の神様であると同時にあなたの神様であり、私を愛するだけでなくあなたを愛する神様であられるという信仰の立場で、お互いがアベル的な存在を訪ねて侍り、カイン的な立場を避けるための最大の努力をしなければなりません。もし、そういう人になれなかったなら、皆さんはいつかは天の審判に引っかかってしまうということをはっきり知らなければなりません。
今日私たちの教会を中心にして見るときも、ここには必ずカインとアベルがいます。それで神様はアベルを通じてみ言を現し、すべての人がアベルと一つになることを願われるのです。それなのに、そのアベルと一つにさせないようにする者がいますが、それが誰かといえば正にサタンです。ですから皆さんが正しい信仰をもつためには、皆さんよりアベル的な存在と一つにならなければなりません。そのために、その方に自分のすべてのことを相談することができなければならないのです。(三―二〇六)
今日統一教会がカイン、アベル問題を提示するということは、イエス様の時代が過ぎたという話です。そして父母の前に立つことができるカイン・アベルという復帰されたアダムの家庭、すなわちサタンの讒訴を受けない兄弟の位置をいうのです。何の話か分かりますか? 「アベルの位置に立つためにはカインを探さなければならない」と言いました。それでは神様はカインを探すためにどのようにされたのでしょうか? イエス様をアベル的な立場に立たせて、イエス様を通してカイン的な存在を探すため国家的な摂理をしてこられたのです。ですからカイン的な国家があり、カイン的な教派があり、カイン的な氏族があり、カイン的な家庭があり、カイン的な個人があるのです。(三四―五四)
アベルの犠牲
御旨と世界297
アベルはどういう者かといえば、再創造過程を通過する立場であるとともに、再創造させる神の立場に、心情的に立つものがアベルである。苦労の道をたどり、神の心情で再び造り変えた勝利的圏をもつことによって、神の愛の相対圏、いわゆるカイン圏を神に返すことができる。だから愛の心情でカインを屈服させなければならない。それは横的において、アベルは神様の立場である、カインを、神が堕落人間を見るように、愛の心をもち続けて、その一人を復帰するために命を懸けて立つ者がアベルである。アベルの道は犠牲の道である。これをなすことによって、地上に神の愛が実現されるという条件として生まれてくるんだね。そこにおいては、すべてが頭を下げなければならない。命を捧げた者にはいかなる者も頭が下がる。それで、アベルの歴史は血を流す歴史になってきた。それが聖書の根本思想である。
こういうふうな立場をたどりながら、歴史的摂理をなしている神様は、いかにかわいそうであるか。自分が全世界すべてに責任をもって、「神様お休みください、自分にすべての十字架、すべての蕩減の道を任せてください」と言うのがメシヤの立場だよ。だから、イエス様は、ゲッセマネの祈りにおいて、自分の思いでなく神のみ意のままになし給え、と最後の祈りまで成し得たというのは何かというと、すべての十字架を自分に任せて、神を休ませたいという立場がメシヤの使命感である。霊界、地界、あるいは神の心情界において、神に苦しみがあった場合にはすべてを自分に背負わせてもらいたいというのがメシヤの使命感である。だからメシヤたる者は、苦しいことがあっても、苦しいという思いだにすることすらできない。
苦しいとしても、それは一生だ。長くて百年にすぎない。この期間を克服することができないというのは、それは話にならない。いくらやっても神に申し訳ない。自分が自分を誇るという思いなどいくら研究しても見いだすことができないのが、我々堕落人間の信仰の道である。
だから、再創造の復帰の道をたどっていく我々人間としては、その道をたどっていかなくてはならない。自分においては再創造することができない。神によって、再び理想の自分に向かって投入する道を経過しなければならない。ここに神が、再び力を投入したという立場に立たなければならないのだから、そこに犠牲という道が生まれてくる。相対者を造るということは、結局、犠牲の道の始まりである。
それが原理の本源の基準になっているから、理想世界、あるいは完成の人間を 求めていく宗教においては、苦労の道を行かなければならない。自分を中心として、現実のそのものを犠牲にしていかなければならない。その犠牲の度合いによって、神の本性がもとがえされる。いわゆる再創造の道を、自分なりに開拓していかなければならないのが堕落の結果我々の立場である。だから宗教においては苦労、苦行の道をたどって行かなくてはならない。それが根本になっている。
(Ⅰ)今後私たちが成すべきこと
文鮮明先生御言選集55 P230
アベル自体を見てみると、アベルは何をしなければならないのでしょうか? それは、カインと一つになって、サタンを屈服させて、そのサタンが順応できる立場に立たなければなりません。それがアベルの責任であることを皆さんは知らなければなりません。
アベルは一人でアベルになることができません。アベルという名前は、カインを復帰してこそ設定されるのです。言い換えれば、失ってしまった横的な三人の息子を探していく責任を背負った人がアベルなのです。ですから、アベルの前には必ずカインがおり、サタンがいるはずです。分かりますか。
アベルを中心として、神様は何を願っているかというと、神様は再創造の歴史を立てるために、アベル自体が、堕落しなかった天使世界、つまり堕落しなかった天使長を身代わりしてあげることなのです。
では、天使とは何でしょうか? 天使長とは、神様が人類始祖アダム・エバを創造した時に協助した者です。これと同じく、アベルも父母を探すために協助しなければなりません。つまりアベルの立場は、神様がアダムを創造する時に協助した天使長の立場と同じだということです。このような使命がアベルにはあるのです。
その前には、必ずカインがおり、サタンがいるのです。これらを屈服させなければなりません。その次にアベルのすることは何かというと、父母を復帰しなければなりません。堕落しなかったアダム・エバを再創造することの、中心的役割を果たさなければなりません。これがアベルの立場です。さらに、神様と人間の間の隔りをつなぐ役割をしなければなりません。そうすればアダム・エバが再創造されることによって、神様の愛を中心として神様と人間世界が完全に一つになるのです。アベルはそのような道を整えていかなければなりません。
アベルは何を解放すべきかというと、第一に、カインを解放しなければなりません。次は、父母を復帰するために、完全な基盤を立てなければなりません。これがアベルの使命なのです。父母の前に、サタンの讒訴を許す立場に立っては、アベルとしての責任を果たしたとは言えないのです。
アベルの使命を果たした人は、サタンの讒訴を受ける立場に立ってはいけないのです。アベルは父母を復帰するためにも、中心的な責任を果たさなければなりません。これがアベルの立場です。
また、アダム・エバは堕落することによって、実体を失ってしまいました。その次に、心情を失ってしまいました。この代わりに復帰の中間的な責任を持たなければなりません。
言い換えれば、アダム・エバは堕落することによって、神側とサタン側の中間の立場に立つようになりました。それゆえ、こちらにもあちらにも動く立場に立っているのです。彼らが人間を神側へのみ立つようにすることができるでしょうか? これはアダム・エバがやることではありません。アベルがやらなければなりません。そのためにアベルは、父母の実体と心情を復帰することにおいて、残された讒訴条件をすべて蕩減しておかなければなりません。
摂理史に現れたアベル・カイン
牧会者の道 八三六
アベルを中心にして見るとき、アベルもカインと同じ精誠で供え物をささげました。しかし、アベルはその出発点から神側であるため、神様は受けられたのです。ですから、アベルは神様が自分の供え物を受けられたとしてもただ「ありがとうございます」と言いながら温柔謙遜でなければなりませんでした。そうしたならカインが殺そうとしますか? しかしアベルは、神様が自分の供え物だけを受けられたので、カインの腸が煮えくり返るほど、度を越えて喜んだのです。どんなにうれしくても一人で喜んで黙っていたなら良かったのに、兄に自慢したのです。皆さんもうれしいことがあれば自慢したいですか、したくないですか? 自慢したいでしょう? 同じようにアベルも兄にそれを自慢したのです。ところが自慢が度を越えて「お兄さんの供え物は受けないで私の供え物は受けた。だからお兄さんより私が、より勝っただろう!」、このようなことまで話したのでしょう。ですからカインの顔は真っ赤になったでしょうし、憤らずにはいられなかったのです。そのように考えることができるのです。
アベルは神様の恩恵を受けたからといって、うれしいと自慢をしてはならなかったのです。恩恵を受けたならむしろ自分の不足を悟り「お兄さん、すみません」と言わなければなりませんでした。そうしたならカインが殴り殺しますか? 殺さないでしょう。これがアベルの失敗です。(三四―五一)
皆さんはアベルが好きですか、カインが好きですか? (アベルです)。私はカインも好きでなく、アベルも好きではありません。どうしてでしょうか? アベルが、カインすなわち兄と共に供え物をささげた時、神様が自分の供え物だけ受けて兄の供え物を受けなかったとしても、兄に純粋に対さなければなりませんでした。兄のことを考えなければなりませんでした。そして「ああ、お父さん、なぜ私の供え物だけ受けたのですか?」と言って泣きわめいて、兄のところに行って「私の供え物だけ受けた神様は嫌いです」と言ったなら、神様はどうされたでしょうか? 間違いなくカインを愛さずにはいられなかったでしょう。
カインとアベルは、供え物を同じように準備して神様の前にささげたことでしょう。カインは穀物を、アベルは羊を一年間精誠を尽くしてささげたのです。精誠を尽くすことはいいというのです。ところで誰が精誠をより尽くしたかという問題を離れて、供え物を受ける受けないという問題を見るとき、神様はアベルの供え物を受けざるを得ない立場であるから受けたのです。
ところで、アベルは神様が自分の供え物だけを受けられたので、自分ができが良くて、神様は自分だけが好きなので受けたのだと思って「お兄さん、見てよ。私の供え物は受けられたよ」、そのように自慢したのです。間違いなくそうしたのです。そうしなかったなら、じっとしているカインの顔がなぜ赤大根のように真っ赤になりますか? アベルが黙っていたのにそうなったのでしょうか? 間違いなくアベルはカインの前に行って「お兄さんが何だ、私の供え物を受けただろう」と言って両手を振りながら歩き、ねちねち振る舞ったでしょう。アベルは驕慢では駄目だということです。謙遜でなければなりません。それだから殴られて死んでも当たり前だというのです。殴られて死ぬようになっています。
摂理から見たアベルの正道
1979年12月30日
自分はアベルだ」と思う人は手を挙げてみなさい。それでは、「自分は統一教会のカインだ」と思う人は手を挙げてみなさい。それならば弟のいないカインがいるのですか? アベルがいなければカインもいないのです。カインとアベルの決定は、「お前はカインになり、私はアベルになる」と言って、互いに約束すればいいのです。「私が兄であり、私は弟になる」。こういうふうにです。
アベルとカインを結ぶ力の中心は何でしょうか? 不動の中心がなくてはならないのです。それが何かというと、信義と心情と理想です。信義は動くことができず、心情も動くことができず、理想も動くことのできない存在になっているのです。さて、次にもう一つの問題があります。理想に到達し、理想がかなえられると、理想に酔ってしまって二人が行くべき道を歩めなくなるということです。
皆さんにアベルはいますか、カインはいますか? カインとアベルはなぜ必要なのですか? 「私はこのアベルが嫌いだ」「カインにばかり仕事をやらせて何だ」。カインなんか煩(わずら)わしい、みんな蹴ってしまえばいいじゃありませんか? (いいえ)。なぜ「いいえ」ですか、カインがいかに煩わしい者か知っているのですか? カインはこう言うのです。「統一教会はいいのだが、アベルというのは嫌いだ。天才主義ではないか。アベルは勉強もしていないし、あのような者が何だ。あれがアベルなのか」と。
堕落圏を越える
文鮮明先生御言選集 55 (真の父母と我々)
カイン、アベルが一つになったとしても、そこにいわゆる堕落しなかった父母の基台を復帰しておかないというと、縦的に上がる道が生まれてこないんだから、この問題の責任を果たすには、神様も今日、真の父母という基準を再びたてさせなければならない。それを中心として初めてカインとアベルが結ばれるにしたがって、上がる道が生まれてくる。結ぶ基準においては、必ず血統転換をなさなければならない。これを結ぶには一人ではできない。
カイン、アベルが一つになってこそ理想的父母が生まれてきます。理想的父母、カイン、アベルが一つにならないというと、父母を復帰することができない。カイン、アベルが一つにならないというと、父母に帰る道も出て来ないし、カイン、アベルが一つにならないと、父母というものを復帰することができません。だから地上において蕩減の基台として、信仰の子供と自分の子供が完全に一つになるというような立場に立つことが、堕落しない時の天使長とアダムが一つになった立場である。
これを横的に信仰の子供と自分が祝福され生んだ子供が完全に一つになると、神様の理想の愛の位置に立たされる、真の父母の位置が初めて復帰される。この縦的歴史過程を横的に再び表して蕩減勝利していかなければならないのが、我々統一教会の行かなければならない道だよ。
第1回訓読講義 復帰の公式路程(1)
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