神山先生の聖和を機に、改めて生前最後の3年間に何を訴えていかれたのかを振り返り、み旨と統一家に関する課題を真剣に考える時間を共に持てればと思います。
本日は2回目として、基元節を目前にして霊界に行かれたお父様の聖和をどのように受け止め、理解すればいいのか共に考えてくださればと思います。
神山先生が麗水で身近に見た晩年のお父様の姿は、”もうろくした、じじいの様に扱われていた”姿でした。メシヤに対する不信の目撃者であった神山先生は、お父様の聖和は統一家の全ての不信の罪を背負って十字架上に捧げた、宥めの供え物と見ておられました。
参考): 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)
<み言>
「イスラエルの第一世はハゲタカの餌食になりました。モーセとひとつにならなかった民族はハゲタカの餌食になったと同様に、今日の統一教会で先生とひとつにならなかった第一世は、ハゲタカの餌食になり得る立場に立っているということを知らなければなりません」
絶対信仰と絶対愛 1994年10月 9 日
韓国・中央修練院にて (抜粋のみ言)
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