生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
祈祷生活の呼吸化
祈祷生活の呼吸化 至誠感天
祈祷の意義と必要性
祈祷というものは、心と体を神様の前に捧げることです。物を神様の前に捧げるのではなく、自分の心と体を完全に神様の前に捧げるための精誠の時間が、祈祷の時間なのです。(1970・1・1)
一人で静かな所に行って、月を見つめながら感謝し、すべての自然と呼吸できる心霊的生活、すなわち祈祷生活が必要です。今、先生もそうです。私が海に出ていくのも、その心情を体恤するためです。それが御飯を食べることより、もっと貴いというのです。(1977・9・1)
祈祷というのは何かというと、浄化です。自分の精神を浄化させるために必要なものです。精神を浄化させるために鍛錬する方法として必要なものであり、精神統一するために、それが必要なのです。(1988・10・3)
祈祷するのは、本来の良心基準を取り戻すためです。本来の良心基準さえ取り戻せば、神様に尋ねてみることもありません。すべて通じるというのです。自分が行く道は、はっきりと分かるようになっています。それが、真の愛を中心として一体となった心と体の共鳴体です。(1994・1・30)
今から皆さんは、祈祷を生活化するのです。生活的に祈祷しようというのです。24時間なら24時間、すべて祈祷です。御飯を食べながらも祈祷であり、どこかを歩いていきながらも祈祷であり、寝ても覚めても祈祷であり、すべてが祈祷です。(1987・1・18)
常に祈祷し、反省し、決心する生活を繰り返さなければなりません。先生に叱責されても祈祷しなければならず、たとえ夫にたたかれたとしても感謝の祈祷をしなければなりません。常に祈祷する生活をしなければ、み旨の道を行くことはできません。皆さんは、生活するにおいて、お金のことを考えずに、先にみ旨のことを考えなければならないのです。ですから、祈祷するのです。祈祷は、心情の補給倉庫です。時間がなければ、仕事をしながらでも祈祷はできるのです。(1969・11・26))
愛を実践させる刺激を連続させるためには、祈祷が必要です。ですから、祈祷というものは、そのような愛を実践するために必要なのです。祈祷には、求める祈祷があり、報告の祈祷があります。求める祈祷は決意の祈祷であり、報告の祈祷は感謝の祈祷にならなければなりません。それが連続的に私を刺激します。それで祈祷が必要なのです。
個人にそのような祈祷が必要であり、夫婦にそのような祈祷が必要であり、教会にそのような祈祷が必要であり、国にそのような祈祷が必要であり、世界にそのような祈祷が必要なのです。堕落した圏内では、そのような祈祷が絶対に必要だということを知らなければなりません。(1981、3・29)
報告祈祷
国を中心として、父母を中心として、父母の愛を欽慕しながら相談しなければなりません。それが孝子、孝女、忠臣、烈女になる生活です。父母と相談する生活圏内で、お互いが同じように考え、感じて暮らすのが天国です。報告生活をするところが天国です。報告するときも、天のみ旨を自分に報告するのではなく、天のみ旨の前に自分が報告をしなければなりません。これがみ旨に従っていく道です。 (1970・10・30)
報告するときは、何かを決定する前に、相談して報告することが重要です。すべて決定しておいてから知らせるのは、報告ではありません。自分が先に入ってはいけないのです。自分を中心とする考えが摂理を台無しにするのであり、うまくやっているという考えが摂理を台無しにするのです。(2005・9・21)
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