「心情の境」1967年6月12日
結論として言いたい事は、神の心情は悲しみの心情の歴史過程を通過して、まだまだ喜びの心情圏は始まっていない。誰を通して、この心情圏を始め得ようか。我々の幼きこの身を献げて、その道を開かなげればならないという使命がある。それをするには、それを全うするには、苦労の道をゆかなければならない。犠牲を払わなければならない。そういう立場に立った我々ならば何をも惜しむ気持をもつな。辛いということを思うな。
神を考えてみなさい。我々以上、歴史的な辛い立場に立っておりながら、我々を慰めておる神の心情を思う時に、我々よりももっと辛い立場に立っておる世界万民がのこっておる。彼らは、我らの救いの手を出してやらないと、救われない。そういう彼らと自分達とくらべてみると、彼らは不幸な立場であり我々は幸福な立場である。そういう立場を考えながら、自分の辛さを忘れて万民のために生命をかけて、涙を流しながら自分の犠牲を喜びとして祈り、努力する人がおれば、その立場は神が我々を救う立場と同じだから、我々は神の苦労の立場、神の辛い場に参加した条件を立てる事が出来る。
その立場に立つというと、神の心情が、その人から出発し得るということですね。この立場、その圏内から天国がはじまるわけなのです。我々は神の身代わりとして、神が我々を慰めてくれるように、我々も世界万民を慰め得なければならない立場にある。そういう立場に立ってゆくならば万民の祝福は我々の手より始まる。万民の幸福の始まりは、地上天国の始まりはそういう人達から始まるという事を忘れてはならない。またそれを我々がやらなければならない。そうならざるを得ない。神がそういう立場であるから。堕落世界の悲しみの心情界における歴史的な使命を、神がそういう立場に立ってもっておるのだから、我々もそういう立場においての歴史的使命を万民に対して果たさなければならない。だから、そういう意味において、神の子となり神の娘となる決意を固めるのですね。