生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
Aug.6.2016 今日の訓読のみ言
ご飯粒一つが地球よりも大きい
自叙伝107
どの囚人も重労働で疲労困憊して痩せこけていくのに、私は体重72キロをずっと維持して、囚人たちの羨望の的でした。体力だけは維持して少しも他人が羨ましくなかった私も、1度だけマラリアにかかってとても大変だったことがあります。1ヶ月近くマラリアにかかっていても、私が仕事をできなければ他の囚人たちが私の分までやらなければなりません。そうならないように、1日たりとも休みませんでした。このように体力があったので、私は「鉄筋のような男」と呼ばれました。いくらつらい重労働であっても我慢できました。監獄であろうと強制労働であろうと、この程度は問題になりません。どんなに鞭が恐ろしく、環境が悲惨だとしても、心に確固たる志があれば動揺しませんでした。
日本の川崎鉄工所で働いた時、タンクに入っていって硫酸を清掃しましたが、毒性のために死んだ人を数人目にしました。しかし、興南工場は、それとは比較にならないくらいひどい所でした。硫酸は有害で、触れると髪の毛が抜け、皮膚から粘液が流れます。硫安工場で6ヶ月も働けば、喀血して死ぬ人もいます。指を保護しようと指貫をはめても、かますを結んでいると、有毒な硫安に触れてすぐに穴が空いてしまいました。着ていた衣服は硫安で溶けて擦り切れてしまい、肉がひび割れて血が流れるか、骨が露わになる場合もありました。肉が削げ落ちたところから血がどろどろと流れ、粘液がだらだら出てきても、1日たりとも休まずに仕事をしなければなりませんでした。
それだけ仕事をしても、ご飯は1日に小さな茶碗で2杯にならない配給しかありません。おかずはほとんどなく、スープは大根の葉の入った塩水がすべてでした。スープはちょっと口にしただけでも塩辛かったのですが、石のようにごつごつしたおかずなしのご飯はそのままではのみ込めないので、そのような塩辛いスープでさえも貴重で、誰一人としてスープの汁を無駄にする者はいませんでした。
ご飯茶碗を受け取ると、どの囚人も1瞬にして丸ごと口の中に入れます。自分の分を食べ終わると、他の人がご飯を食べる姿を、喉を鳴らして眺めています。ある時は、我知らず人のご飯茶碗にスプーンを突っ込んで、争いが起きることもありました。同囚のある牧師は、「豆一粒だけくれたら外に出てから牛2頭あげる」と言ったほどです。死人の口の中に残ったご飯粒まで取り出して食べるほどでした。興南工場で味わった空腹は、それほどまでに凄絶でした。
空腹がもたらす苦痛は、実際に味わってみなければ分かるものではありません。空腹が極まったときは、ご飯粒一つでもどれだけ貴いかしれません。今も興南のことを思うだけで気持ちがさっと引き締まります。ご飯粒一つがそこまで人間の全神経を刺激できるということが信じられませんでした。おなかが空けば涙が出るほどご飯が恋しくなり、母親よりもっと恋しくなります。おなかがいっぱいのときは世界の方が大きいのですが、おなかが減ればご飯粒一つが地球よりもっと大きいのです。ご飯粒一つの価値とは、そのように驚くべきものです。
興南監獄では、配給された握り飯の半分を同僚たちに与え、残りの半分だけを食べました。約3週間そうやって実践した後、初めて握り飯一つを全部食べました。二人分のご飯を食べたと考えれば、空腹に耐えることがとても楽になります。
興南の実態は残酷の一語に尽き、実際に体験したことのない人には想像すらできないでしょう。囚人の半数が一年以内に死んでいきます。死体を入れた棺桶が毎日のように監獄の裏門に運ばれていくのを見つめなければなりませんでした。全身のあぶらが一滴残らずなくなるような仕事ばかりさせられて、死んで初めて門の外に出ていくことができたのです。いくら無慈悲で冷酷な政権であっても、それは明らかに人間としての限界線を越えたものでした。そのように囚人の涙と怨念がこもった硫安入りの叺は、港からソ連に運ばれていきました。
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