今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

アベルの犠牲(8月10日)

Aug.10.2021今日の訓読のみ言

アベルの犠牲

御旨と世界 P.207  アベルはどういう者かといえば、再創造過程を通過する立場であるとともに、再創造させる神の立場に、心情的に立つものがアベルである。苦労の道をたどり、神の心情で再び造り変えた勝利的圏をもつことによって、神の愛の相対圏、いわゆるカイン圏を神に返すことができる。だから愛の心情でカインを屈服させなければならない。それは横的において、アベルは神様の立場である、カインを、神が堕落人間を見るように、愛の心をもち続けて、その一人を復帰するために命を懸けて立つ者がアベルである。アベルの道は犠牲の道である。これをなすことによって、地上に神の愛が実現されるという条件として生まれてくるんだね。そこにおいては、すべてが頭を下げなければならない。命を捧げた者にはいかなる者も頭が下がる。それで、アベルの歴史は血を流す歴史になってきた。それが聖書の根本思想である。 

 こういうふうな立場をたどりながら、歴史的摂理をなしている神様は、いかにかわいそうであるか。自分が全世界すべてに責任をもって、「神様お休みください、自分にすべての十字架、すべての蕩減の道を任せてください」と言うのがメシヤの立場だよ。だから、イエス様は、ゲッセマネの祈りにおいて、自分の思いでなく神のみ意のままになし給え、と最後の祈りまで成し得たというのは何かというと、すべての十字架を自分に任せて、神を休ませたいという立場がメシヤの使命感である。霊界、地界、あるいは神の心情界において、神に苦しみがあった場合にはすべてを自分に背負わせてもらいたいというのがメシヤの使命感である。だからメシヤたる者は、苦しいことがあっても、苦しいという思いだにすることすらできない。 

 苦しいとしても、それは一生だ。長くて百年にすぎない。この期間を克服することができないというのは、それは話にならない。いくらやっても神に申し訳ない。自分が自分を誇るという思いなどいくら研究しても見いだすことができないのが、我々堕落人間の信仰の道である。(み旨と世界P207

 だから、再創造の復帰の道をたどっていく我々人間としては、その道をたどっていかなくてはならない。自分においては再創造することができない。神によって、再び理想の自分に向かって投入する道を経過しなければならない。ここに神が、再び力を投入したという立場に立たなければならないのだから、そこに犠牲という道が生まれてくる。相対者を造るということは、結局、犠牲の道の始まりである。 

 それが原理の本源の基準になっているから、理想世界、あるいは完成の人間を求めていく宗教においては、苦労の道を行かなければならない。自分を中心として、現実のそのものを犠牲にしていかなければならない。その犠牲の度合いによって、神の本性がもとがえされる。いわゆる再創造の道を、自分なりに開拓していかなければならないのが堕落の結果我々の立場である。だから宗教においては苦労、苦行の道をたどって行かなくてはならない。それが根本になっている。(み旨と世界P.197

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