生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
サタンの本質は
「我々は行かなければならない」 忠孝の源229
1967年7月9日聖日説教 於・大阪教会
我々はサタンの血統をとり除くためには、自分のもっている血気、自分を中心としたいかなる血気を持ってはいけない、サタンの本質は高慢なる本質である。自分を中心としてすべてを統轄しようとする本質である。だからそれに反する本質をもたなくてはならない。我々は素直なる、従順なる、本質を持つ。そうするとサタンがその本質を抜き取って我々を自分のものとするには、我々の後について、自分の本性の踏み場をはづさなければならない。そうするとサタンは屈服せざるを得ない。サタンは自分を中心としてすべてを引っ張りたがる。
すべての国家も、社会も、神をさておいて、善なる位置をさておいて、自分にみな集中させようとする。神はどういう方法をとるかというと、自分から下ヘ、反対の方向ヘ行こうとしている。自分を中心として皆集めるのが悪であり、自分のものを全て捨てて、人のために公のために捧げるのが善である。方向が反対になっている。
だからサタンの行く道と神の行く道の別れめに立つ我々の生活圏にいての善悪の基準は何かとい うと、善は自分を中心としたすべてを犠牲にするような、自分に属するあらゆるものをみな捨ててし まい、与えてしまう立場であり、悪は自分を中心としてすべてを引きつける立場である。
悪は先に打つ。善は打たれるものである。だから第一次大戦も、先に打った方が負けた。第二次世界大戦の時も打った方が負けた。だから打たれて打たれて勝利せよ。善は先に打つものではない。悪が先に打つものである。ここにおいて天と地が分か れてくる。
我々はサタンの血統をとり除くためには、自分のもっている血気、自分を中心としたいかなる血気を持ってはいけない、 神を中心としての血気はいいというのです。公のために我は犠牲にならんというのと反対に、公を犠牲にして自分のために、これは 悪である。善悪の境目ははっきり分かれる。だから愛するのも自分のために愛するのではなく、国家のため、世界のため、神のために愛する。自分自身を尊ぶのも、自分自体を尊びたいからではなく、世界の中心たる存在の自分だから尊ぶ。だから今までの世界のあらゆる人々の生活観と、神の願う、復帰された場合の生活観とは根本的に違っている。そういう道を我々は打開してゆかねばならない。
ただいまコメントを受けつけておりません。
既にLINEに配信されてる方は上記【LINE紹介】タブをクリックして手順に従って友達に紹介ください。