今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

不平不満は許されない(10月19日)

Oct.19.2021今日の訓読のみ言

不平不満は許されない

御旨と世界P.205


 
神は、我々人間になぜ服従を要求するか。それは神自体が喜ぶためではない。我々人間を喜ばせるためである。神の理想相対圏に立たせて、再創造の目的を完成させることによって、堕落した要因を逆に押しのけて、乗り越える立場でなければならない。堕落はそもそも服従しないところから始まったのだから、それをもとがえすためには、絶対必要な要件として、「絶対服従せよ」と命令せざるを得ません。だから宗教においては文句を言えません。弁明が言えません。絶対服従である。こういう結論になります。

  絶対服従、それは苦労である。苦労の目的は、結局は神の創造本然の位置から、完成される立場にまで立った条件として認められる。だから苦労を、犠牲をしていけば、我々は完成圏に立つ。それ以外に道がないからその道を満たし、宗教は相応した苦労の道を強調せざるを得ない、ということを理論的に整理しておかなければならない。堕落の道を乗り越えるには、絶対服従の道以外ない。だから神は、仕方なしにこの道を求めざるを得ない。 

  復帰の道においては、不平不満は絶対禁物である。許されない。絶対犠牲なる道で、泣き泣き行くとしたらどうなるか。絶対服従しながらも、希望に満ちて喜んで行かなければならない。なぜ、そういう道を行かなければならないか? それは再創造の道であるから、希望の道を、今行きつつある立場だから喜ばざるを得ない。信仰の道は落胆を感じながら行く道ではありません。だから犠牲と苦労は、すべてを授ける器になるというんだね。 

  だから宗教の中で、歴史が愛する宗教は何かと見た場合、命を捧げきって、歴史過程を通過した宗教は、世界のすべてを愛することができる。キリスト教は殉教の宗教である。血を流して、世界に発展してきた宗教である。だからキリスト教は、宗教を中心として見た場合、神の前に一番の親孝行をした立場にある。だから、神様がいれば、キリスト教を中心として、世界が治まらなければならないという結論になる。だから、愛の心をもって、いかに長い間犠牲しながらやっていくか、ということが自分の勝敗を決める内容になってくる。 

  しかし、本当の親である神であるならば、神がそういう苦労を子供にさせて喜ぶ立場であろうか、つらい立場であろうか? この世の堕落した親子関係から考えみた場合にも、自分の子供に苦労させたい親は、絶対一人もいません。しかし、神はなぜ、こういう苦労の道を人間にさせるか。こういう摂理のみ旨を率いていかなければならない、神の立場はいかばかりつらいであろうか。神の立場を考えてみた場合、いかにかわいそうな神であろうか。我々、いかに苦労するといっても、一生以外にはない。地上生活は一世紀以内の生涯である。

  だから、神に対して、今日一日の励ましのものを授けてあげるのが孝の道であり、忠の道である。ここにおいて、自分ながらの不平、不満を言うものは天宙的に許されない不孝者である

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