文鮮明先生み言選集第78巻 1975年5月1日
今後、皆さんが考えるべきことは、侍る生活を実践しなければならない時に入っていくということです。
それでは侍る生活をしようとするなら、一番最初に誰に侍らなければならないでしょうか。神様に侍らなければならないのです。神様に侍る目的は、結局私が良くなるためのものです。私が良くなるには神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受けないと、どんなに外的に自分が良くなろうと努力してみたところで効果がありません。神様の愛がとどまることができる人にならなくては良くなることができないのです。
皆さんは侍る生活をしなければならないのです。このように、侍る生活は何ゆえしなければならないかという問題について考えてみるとき、神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。
したがって、皆さんはまず神様に侍らなければなりません。神様の愛を受けようとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。神様が私たち人間に完全な愛をもって来られるので、私たちも完全な内容を投入しなければならないのです。
「至誠(しせい)ならば感天(かんてん)」という韓国の格言があるのですが、真にそれは天理に通じた言葉です。「精誠を込める」というとき、精誠を込めるとは内外をみな尽くすということです。言行深思とすべての実践と、内外のすべての私たちの良心生活圏までもすっかり合わせて捧げるということです。それが精誠です。
そこで「精」は精神のことを言い、「誠」はみ言を意味する言(ことば)偏(へん)に、成し遂げるという意味の「成」を合わせたものです。それゆえ内外のすべてを成し遂げて捧げるという意味です。そのようになってこそ感天、天が感動するというのです。天が感動することによってその人を考えて、考えるだけでなく考えが常にとどまるようになれば、そこには愛が訪ねてくるのです。すべての考えがそこにとどまるようになると愛が連結するのです。
考えるところに人の心が動くのです。それゆえ精誠を込める立場に立ってこそ、神様の愛を受けることができるのです。神様が私たち人間を愛するように、皆さんが神様のために精誠ですべてのことを捧げれば、そこで初めて神様の愛を感じて、神様を愛することができるというのです。
人間が堕落したがゆえに、皆さん自身が神様を愛することができないのです。したがって、神様のために精誠を込めることによって神様の愛が私に尋ねてくるのであり、その愛を通して神様を知って神様を愛せるようになるというのです。愛の根源は神様です。