June.30.2015 今日の訓読のみ言
先生の覚悟と心情
東京地区和動会における御言 一九六七年六月十六日(東京都渋谷区)
いくら牢屋に入っていても、神の悩みは、これ以上の基準だ。いくら自分がつらいといっても、私が死の境地をまだ越えていない。また神の前に、「いかなる苦労の道があっても行きます。死の峠を何度越えても行きます」という誓いの祈りをしたことがある。しかし、まだ一回もそういう場面には立っていないし、まだまだ行くべき道がある。そのような道を残して自分が休むことを思うというのは、神に対して申し訳ない、許されない。そういう気持ちなんだ。
だから、もし君たちもそういう気持ちをもって、これだけの人たちが、今から日本の四方八方に別れて行くと、日本はすぐ救われるんじゃないかと思うんだね。先生みたいな覚悟と心情でもって、精いっぱいの、ありったけの力、忠誠を尽くして、日本国民一億を救おうと一体となって動き出したら、これこそ遠からず復帰される。
復帰される者にとっても、そういう心情の因縁でもって救われたいという気持ちを、みんな持っておるんだね。そういう心情の因縁を中心として天に導いてくれる指導者を慕うというのは、堕落した人であるけれども、誰もの願いだ。
そこには、階級が問題じゃない。統一心情は階級を超越する。共産党は階級闘争を唱えておる。ちょっと違うんだね。それは上層階級も、中間階級も、下層階級も、階級を超越して皆が願い、たたえる道だから、この心情の世界こそ、統一心情の原理の道こそ、万民の救われる道じゃないかと思うんだよ。こういう方法でなければ、万民は救われないと思うんだね。
それで牢屋に入っても、そこにおいてもまだまだ行くべき道が残っておるから、もっともっと真剣になるよ。もっと、もっと真剣に、もっともっと固まる、もっともっと強くなる。もっともっと決心する。それは実に、忘れられない。その場において両手を握りながら、歯を食いしばりながら神を安心させる。「また行きます。自分に対して心配しないように」。神の前に忍び忍んで貫き通すという男、そういう女がおれば、神が見て、頼もしく思わざるを得ないだろう。そういう人がいれば、神も同情せざるを得ない。
牢屋の中で、先生が一番気づいた点は、飢えるまっただ中において、食べ物より以上、神を愛し得るか、天の御旨を慕えるか。いくら死の境地に立っても、感謝し得るか、そういう問題だね。
開質問状&反論まとめ
「今日の訓読のみ言」復興集会 映像まとめ
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