生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
創造の役事は完全投入
天聖経「真の神様」より抜粋
神様の天地創造は生命の接着を目的としたものではありません。愛の理想を同化させるためのものです。
科学者は、宇宙は力で形成されており、この力によって宇宙が発生したと言います。しかしそうではありません。電気は、先に力があって作用するのではなく、作用を通して電気が生じます。そして作用する前に、プラスとマイナス、すなわち主体と対象がなければなりません。作用は一人ではできないので、作用するためには必ず、主体と対象がなければなりません。結局プラスとマイナスがあってこそ作用し、その作用を通して電気が生じます。同じように力も主体と対象が作用をして初めて生じます。ですから今日、学者が言っているように力から宇宙が発生したのではありません。また、力が先なのではなく作用が先です。
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愛が先でしょうか、生命が先でしょうか。愛が先です。地球が神様の生命から出たからといって、生命が一番だとは言いません。愛が一番だと言います。神様は天地創造をする時、まず生命からしたといっても、その生命の発源地、動機は愛です。生命が生じたのは愛のゆえです。
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神様がなぜ天地を創造したのでしょうか。いくら絶対者だと言っても、一人で喜びを感じることはできず、たとえ喜んだとしても喜びの刺激を感じることができないので創造をしました。絶対者がたとえ「私は絶対者だ。私は愛の主人公である。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。
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神様が御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは力の投入を意味します。芸術家は最高の作品を作ることが願いです。芸術家は傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ完全な傑作品が出てきます。これ以上できないというときに初めて傑作品が生まれるのです。
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創造は自分を投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入せずしては、いかなるものも生じません。完全に投入するところに完全な対象が成立するという原則を考えると、神様は主体として対象を造るために完全に投入しました。神様自身が、御自身のためではなく対象のために存在しようと運動を始めたのが創造です。
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創造するとは力の投入のことを意味します。投入をしたのですが、どれだけ投入したのでしょうか。神様がみ言によって造るときに、「こうなれ、ああなれ」といたずらに創造したかのように考えられています。違います。ここには真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入しました。私たちも、精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものは愛しません。
それゆえ創造する前と創造した後では違います。創造する前は自分のことを考えたのですが、創造を始めてからは対象のためを思いました。私が存在するのは私のためではなく、相対のためであり、息子、娘のためである、このようになっています。
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神様が天地を創造するということは、御自身の本質を投入するということです。結局エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の減少を意味します。対象世界の創造は愛によってなされたのですが、神様はそのみ旨をなすために自己を投入しました。投入したそのものが自分に実るようにしたのではなく、相対に実るようにしました。投入することによって神様が疎遠さを感じるのではなく満足を感じるのです。それは愛によって造ったからです。
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私たちが朝食を食べて重労働をすれば空腹になります。そしてすぐ疲れます。なぜでしょうか。力を投入すると消耗するからです。世の中の万事において、損をして喜ぶということはありません。プラスとなってこそ良いのです。それゆえ神様も天地万物を造ったのは、良しとするために、必ずプラスとなり得る何かがなければなりません。それでは神様はプラスとなり得るものをいつ得ることができるのでしょうか。ここに被造物の完成という標準があります。「この時まで投入すれば、その時からはかえってくる」というものがあります。同じことです。何かをしようという望みをもって努力し、その限界点を乗り越えると、必ず結果がかえってきます。これが宇宙の法則です。
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神様も同じです。人を造ったのは神様の力を投入したということです。力を投入しました。自分自身を消耗しました。ところが投入できるものを完全に投入して人を創造したとするならば、その完成した人はどこかに逃げるわけではありません。完成すればその次には神様に戻ってきます。戻ってくるにあたって、百を投入したときに、百よりも小さい価値をもつものとして戻ってくるのではなく、神様の創造の価値を加えて戻ってくるのです。
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宇宙はどのように出発したのでしょうか。神様を見てみると、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自己を消耗するところから始まったのです。では、自己を消耗して相対を造って、何をしようというのでしょうか。二者共に消耗するのですが、消耗して得るのが愛です。愛さえ得るならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、神様はなぜそうしたのでしょうか。愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。そうではなくて、真の愛が小さくなるという原理であれば、神様自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。
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愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるがゆえ、疲れ果てることがないのです。ですから困難で苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌だとすればどうしますか。愛のための道には永遠に嫌だという心はあり得ません。神様の本質には怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。
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神様の創造理想を中心として投入、投入、投入しなさいというのです。投入すれば回りに回るのです。空気を例に挙げれば、絶対低気圧と絶対高気圧があればその中間の気圧が生じます。誰が呼ばずとも天が降りてくるのです。それゆえ一〇〇パーセント以上投入したがる人は、いつも天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうなっています。完全に投入して忘れるところには永遠な運動が連結するために、その基準において永生の論理が出てくるのです。永生、永遠な生命、そうでなければ統一の原則をどこから引き出してくるのですか。「ため」に生きればぐるぐる回ります。ぐるぐる回ってどこに行くのでしょうか。だんだん小さくなって上がっていきます。上がっていくのです。ぐるぐる回って広がれば下りていきますが、だんだんすうっと上がっていくので、神様は自動的にアダムとエバの肩の上に両足を置くしかありません。何のことか分かりますか。
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それでは神様が天地万物をなぜ造ったのでしょうか。造ったという事実は力を投入したということです。力の投入です。力の投入というのは自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり引き出したのにそれが戻ってこなければ消耗するのです。
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神様は万物と人間を創造するためにあらゆる力を投入されました。全部を投入し、また投入されました。他のものは投入すれば全部消耗しますが、真の愛だけは投入すれば投入するほどより栄え、生産するのです。真の愛は百を投入すれば百二十が戻ってきます。それゆえ真の愛を実践する者は滅びるようでも滅びることなく、永遠に栄えて永生するのです。
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神様がなぜ存在されるのでしょうか。何ゆえにおられようとするのでしょうか。愛ゆえにおられようとするのです。それゆえ愛の相対が必要なのです。ですから全知全能なる神様は、愛の相対を創造しなければならなかったのです。創造の本質的理想を、愛を中心として創造を始めたということをこれまで私たちは知らなかったのです。愛ゆえにすべての被造世界が創造されたのです。
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神様の願いは真に与えることのできる世界的な足場をもつことです。神様は与えることにおいて誰も讒訴することはできず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を望んでいます。そのような立場を世界的に広げて、万民をそこで生きるようにすることが、神様の得ようとされる所期の目的です。
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