自叙伝236
「人生80年」と言います。喜怒哀楽が入り乱れる80年という歳月は、本当に長く見えますが、その中で、眠る時間、生活の資(し)を得る時間、遊ぶ時間、諸々の雑事に追われる時間などを除外すれば、わずか 7年しか残らないといいます。私たちがこの世に生まれて80年を生きても、本当に自分自身のために使える時間はわずか7年だけです。
自分の命が尽きて体が地の中に埋められる瞬間、生涯の富と栄華は一度に泡となって消えてしまいます。その人が自分の自由に使った7年の時間だけが残り、後代の人たちに記憶されます。その七年の歳月だけが、80年の生涯を生きて自分がこの世に残す痕跡なのです。
人が生まれて死ぬことは、自分の意志によるものではありません。人は、自分の運命に対して何も選択することができません。生まれても自分が生まれようとして生まれたのではなく、生きていても自分の思いどおりに生きることができるわけでもなく、死ぬとしても自分が死のうと思って死ぬのではありません。このように、人生において何の権限もないのに、自分は優れていると誇れるものがあるでしょうか。自分自身が生まれたいと思っても生まれることもできず、自分だけの何かを最後まで持つこともできず、死の道を避けることもできない人生ですから、誇ってみても侘(わび)しいだけです。
人よりも高い位置に上がったとしても、一瞬の栄華にすぎず、人よりもたくさんの財物を集めたとしても、死の門の前では一切合(いっさいがっ)財(さい)捨てて行かなければなりません。お金や名誉や学識、そのすべてが時と共に流れていってしまい、歳月が過ぎればすべてなくなってしまいます。いくら立派で偉大な人だとしても、命が尽きた瞬間に終わってしまう哀れな命にすぎません。自分とは何か、自分がなぜ生きなければならないのかを、いくら考えても分からないのが人間です。したがって、自分が生まれた動機と目的が自分によるものではないように、自分が生きるべき目的も、やはり自分のためではないことを悟らなければなりません。
ですから、人生いかに生きるべきか、ということに対する答えは簡単です。愛によって生まれたのですから、愛の道を求めて生きなければなりません。父母の果てしなく深い愛を受けて生まれた命なので、生涯その愛を返して生きなければならないのです。それこそが、私たちが人生において自らの意志で選択できる唯一の価値です。私たちに与えられた7年という時間の中に、どれほど多くの愛を満たしたか、ここに人生の勝敗がかかっています。
誰でも一度は肉身という服を脱いで死にます。韓国語では、死ぬことは「トラガダ」と言います。「トラガダ」という言葉は、もともと出発した所、すなわち根本に再び戻るという意味です。私たちが生きているこの宇宙のすべての活動は循環(じゅんかん)しています。山に積もった白い雪が解け、渓谷(けいこく)を流れ下って川の流れとなり、海へと流れ出ていきます。海に流れ込んでいった白い雪は、暖かい太陽の光を浴びて水蒸気となり、再び空に昇って雪や雨の滴(しずく)になる準備をします。そのように、本来いた所に帰るのが死です。人が死んで帰る所はどこでしょうか。心と体から成る人の命から体を脱ぎ捨てるのが死なので、本来、心がいた所に帰るのです。
死を語らないまま生を語ることはできません。生の意味を知るためにも、私たちは死とは何かを正確に知らなければなりません。どのような生が本当に価値あるものなのかということは、今すぐにでも死ぬかもしれない窮地(きゅうち)に追い込まれ、1日でも長く生きようと天にすがりついて泣き(なき)喚(わめ)く、そのような人こそが知り得るものです。それほど貴い1日1日を、私たちはどのように生きればよいのでしょうか。誰もが渡っていかなければならない死の境界を越える前に、必ず成し遂げておくべきことは何でしょうか。
最も大切なことは、罪を犯さず、影のない人生を生きることです。何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争の種になりますが、はっきりしていることは良心が躊躇することをしてはならないという事実です。良心に引っ掛かることをすれば、必ず心に影が残るのです。
その次に大切なことは、人よりもっと多くの仕事をすることです。人に与えられた人生が60年であれ70年であれ、時間が限られていることに変わりはありません。その時間をどのように使うかによって、普通の人の2倍にも3倍にもなる豊かな人生を生きることができます。時間を必要度に応じて細かく刻み、一瞬でも無駄に使わずに一生懸命働けば、その人生は本当に貴いものになります。人が1本の木を植えるとき、自分は2本3本の木を植えるのだ、という勤勉で誠実な姿勢を持って生きるべきです。自分のためにそのように生きよと言うのではありません。自分よりも人のために、自分の家庭よりも隣人のために、自分の国よりも世界のために生きなければなりません。世の中の大概の罪は、「個人」を優先するときに生じます。個人の欲心、個人の欲望が隣人に被害を与え、社会を滅ぼすのです。
世の中のあらゆるものは通り過ぎていってしまいます。愛する父母、愛する夫と妻、愛する子供も通り過ぎていってしまい、人生の最後に残るのは死だけです。人が死ねば墓だけが残ります。その墓の中に何を入れれば価値のある人生を生きたと言えるのでしょうか。生涯かけて集めた財産や社会的な地位は、すでに通り過ぎてしまった後です。死の川を渡っていけば、そのようなものは何の意味もありません。愛の中に生まれ、愛の人生を生きたのですから、生を終える墓の中に残るものも愛だけです。愛によって生まれた命が、愛を分かち合って生き、愛の中に帰っていくのが私たちの人生なので、私たちは皆、愛の墓を残して旅立つ人生を生きなければなりません。