生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
愛の最後の終着駅
御旨と世界 P.94
我々の周囲には悲しい人々が多い。また反面、そうでない人たちもいる。我々の、家庭、都市、また、国家もまたそうである。発展するものがあると思えば、そうでないものもある。笑う人があると思えば、泣いている人たちがいる。
このように一様でない現在・・・ところが人間は、皆が悲しみを嫌う、と同時にまた孤独な場所を嫌う、喜びと栄光、そして幸福を追求する。家庭と社会、そして国家もみな同じである。みなが悲しみを避け、栄光を迎えようとして、闘っているのである。世界もそうだ。もし、このような全体のものを支配するある存在がいるとするならば、その存在もまた同じではなかろうか!天のお父様も、間違いなく我々人間と同じはずだ。
愛は、孤独なそして苦しいところで与えられるべきものではない。あくまでも自由な、そして栄光ある場所で与えられるべきものである。そういう環境のもとで最高の愛を思う存分に与えたい。それが神の心情なのだ。
今、この地上にそういうことができる人間がいるのだろうか?我々はそういうことに対して考えてみなくてはならないのである。そのような最高の愛は、ある個人だけに与えられるべきものではない。家庭を越えて、さらにまた、世界を越えてより高き次元のものに与えられなければならない。これが愛の本質なのである。
一人よりは二人、二人よりは三人・・・そしてまた十人・・・このようにして拡大して、その対象を追求するのが愛の本質なのだ。それゆえに人類愛というのがこの地上にあり得るのである。自分の国家よりも世界を愛することができる力が、ここより発生する。愛の最後の終着駅、それは最大のものでなくてはならない。多くの子供たちを養った経験をもった親たちは、この深い心情をよく理解するだろう。そのような人たちは敵をもつことができない。そういう内容を分かるようになる。その理由は、すべての人はみな愛を受けなければならないという事実を知るようになるからである。
世界を除外して私たちだけが愛を受けたい・・・このような思考方式がここから破壊されるのである。
神の欲望はある個人にだけ限定されない。全体にわたるということを天は望む。「公」と「私」とが、ここから分別される。「公」というものは全体のためのものである。それゆえに、全体が望むもののために尽くすのが、「喜び・・・であるということができるのだ。私、一人だけの喜びというものはあり得ない、それは全体的な喜びから追放されるのである。天の願いと内容というものは、こういうものだと私は思う。それゆえに知恵のある人々は将来のために生きる。現在のためにのみ生きられるものではない。それで、そのようなところから信仰というのが必要になるのである。そこに希望というようなものがあり得る。ゆえに勝利というのは個人的なものであってはならない。あくまでも全体的なものでなくてはならない。
君は君である。私は私である・・・そういうものではない。君は、私であり、私は君である。そういうところまでいかなければ駄目だ。個人の勝利においては、個人だけしか喜べない。二人が喜ぶということはできないし、また全体も喜ぶことができない。だが、個人的な勝利も、これを全体の前に棒げれば全体のためのものになる。それで、犠牲ということが生ずる。
犠牲によって、我々は公的な勝利を追求することができる。それは範囲が広くなればなるほど、その価値が増大する、ここに世界の絶頂がある。そこで愛の道には必ず犠牲というものが同伴する。ところが手段や方法をえてしてはこのような道は歩けない。純粋でなければならない。そうでなければ人に笑われる。個人的な人とではお互いが喜べない。このような意味において、勝利というのはある個人のためのみにはあり得ないのである。
れゆえに宗教においては、個人主義というものはあり得ない。もちろん、我々はあくまで個人として存在する。しかし、その個人というのはあくまでも国家のためにあるいは、全体のためにある個人であるという事実を我々は、はっきりと理解していなければいけない。そこで、我々個人というものは世界を象徴する存在でなければならない、ゆえに個人は、より公的なもののために生きなくてはいけない。
このように果てしなく拡大していくのが神の愛である。我々は、統一教会のためにのみ生きてはならない。家庭のためのみに生きてはならない。世界のために生きなければならないのである。たとえ、犠牲になることがあっも、我々は、この道を歩まなければならない。このようにして個人は生きのこれる。美しい黄昏を見る時、自分だけ見たいと思う人がいるだろうか?そういう美しいものは、あらゆる人が眺めて喜んでほしいと思うのが人間の本情であろう。 永遠なる天国というものは、ある個人の内にだけにはあり得ない。永遠なる天国というものは全体においてのみあり得る。
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