生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
愛は無限に与え、また与えること
真の愛 P.20
宇宙を造った神様、法度を立てた神様はどんなお方ですか。宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に会おうとするならば「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、知識をもってこいと言いません。能力の大王ですが、能力をもってこいと言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、それらをもってこいとは言いません。「ため」に生きてくれば、みんな私のそばに来ることができるというのです。
人のために与え、また与えるのは、再創造する上で、神様が創造時に御自身を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私をつくるためのもので、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造の歴史は蕩減復帰路程であり、蕩減は再創造の歴史を通じてするので、御自身を投入するところにおいてのみ再創造が展開されます。ですから犠牲になるのは不可避だというのが理論的な結論です。
愛は、自分を100パーセント投入することです。神様が天地を創造する時、愛ゆえにすべて100パーセント投入したのです。ですから真の愛は、「ため」に生きるところから始まるのです。
投入し、投入し、また投入するところから真の愛の論理が始まるのです。「ため」に生きるところは滅びません。小さいところから大きいところに、そして大きいのがその次にはどこへ行くのかといえば、中に回るのです。
愛とは、与えて満足するのではなく、与えてももっと与えたいのに、与えられなくて恥ずかしさを感じる、そのようなものが愛です。与えて恥ずかしさを感じる人であればあるほど、本当の愛の主人です。愛は、与えれば与えるほど、もっと大きいものに加えられます。また作用すればするほど、入る力より出ていく力がもっと大きいのです。ですから滅びるのではなく、栄えるのです。愛なくして栄えることはありません。
+α
第3部
平和世界の為の超宗教超国家運動
世界和合に向かう超宗教運動
(1993年2月1日から7日まで、インドのニューデリーで開催された「ニューデリー議会」での演説)
この時間、この地上の宗教が一つの家庭だと考えてみましょう。絶対者であられる神が各宗教における愛と願いの対象なら、その慕わしさの対象は私たちの家長だと見ることができます。このように、意志と心が屈強な個々人たち、即ち世界の宗教で構成された家庭が団結できる唯一の希望は、各自が家長の意志に屈服する道しかないことは明白です。家長を通してのみ統一は可能です。各々の宗教ごとの観念に固執する以上、宗教団体間の関係の進捗を望むことはできません。
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