生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
打たれて勝利する道
御旨と世界 P.58
歴史上から見て、善人たちは常に打たれてきました。聖人たちも常に打たれてきました。ただそれだけを見ると彼らはみな負けたような姿でありました。しかし、彼らは決して負けたのではありません。彼らは必ず最後の勝利を勝ち取るようになっているのです。これが天の戦法です。イエス様もそのような戦法をとられたのです。それゆえに、我々の歩む道は決して平坦ではありません。苦痛と受難があふれている道を我々は歩いていくのです。平坦な道を歩もうとする者・・・そういう人は、天に対しては反逆者であると考えて間違いではありません。
我々の統一教会におきましては、特に、個人的な利益のために走った人々はみな消え失せてしまいました。他人が見ていようと見ていまいと、国家のため、世界のために黙々と働いている場合、そういう人々は言葉の約束がなくても、深く深く一つに結ばれていくのです。それゆえに、祈りにおいても、人の知らないところで祈祷をすることが最も大切なことです。見えない至誠を尽くすことが大切なことです。そういう人が最後まで残る人です。そういう人が最後の宝となるのです。
統一教会はそのような人をつくり上げるために、一生懸命になっているのです。千万人を代表し得る信仰の実体をつくり上げるため、我々は骨を折っているのです。こういう方法をもって、我々は初めて天を解放することができるのです。それゆえに、我々は、自分一人が肥料となって、天を解放し、後孫たちを解放させる覚悟を決めなければなりません。
一人山頂に残って、涙を流す・・・・天のために嘆くその人は、世界の平和をたたえるその人よりも、もっと深刻なる人です。こういう意味において、イエス様のゴルゴタにおける三次の祈りは、いかなる祈祷よりも深刻なものであったのです。そういう人がいる場合、天は彼を取り巻いて深い関心をもたざるを得ないのです。そういう人が、全人類の希望の的となっていることを我々は知らなければなりません。そういう人を中心として、天は動くのです。自分一人の利益のために生きる人は光を残すことはできません。しかし、国家のために、世界のために、天のために生きる人は復活圏内に入ることができるのです。最後まで残る唯一なものは天であります。ゆえに天のために生きる人が最後まで生きることができるのです。
1985年渡米修練会5「パウロと使徒たちの関係」
1985年渡米修練会6「2000年前の不一致」
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