今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

教派ではない教会、教会でもない教会(12月17日)

Dec.17.2017 今日の訓読のみ言

教派ではない教会、教会でもない教会

 

自叙伝131

 

 1953年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年5月、(チャン)忠壇(チュンダン)公園に近い北鶴(プカク)(トン)のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。

 

 「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、

統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。

 

 とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません

 

 仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でない者と区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます

 

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