June.15.2015 今日の訓読のみ言葉
死は、幸福の門を開門する時間
「真の愛」 P.197
私たちは神様の愛によって生まれ、愛によって生きて、息子、娘を生んで、愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様の元に帰っていくのです。すなわち私たちの一生は愛によって始まり、愛によって成熟し、愛の実として収穫されるのです。人が死ぬということは、愛の実を刈り入れることです。
神様の愛の中に生まれることは死ぬことですが、人間世界では「ああ、死んでしまう」と大騒ぎになります。そうすると神様はそれを見て大笑いされるでしょうか。人間の世界で泣きわめく姿を見て神様は悲しまれるでしょうか、喜ばれるでしょうか。制限された愛の圏から無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えることのできる瞬間が、第二の出生である死の道を通る、その瞬間ではないでしょうか。それでその道は、昇華の道です。
死を克服しなければなりません。第二の生を促進させる変化の過程が死です。それゆえに、死は悲しいものではありません。新しい世界に飛躍するものであり、昇華なのです。この世では死が生命の終わりを意味しますが、死は他の世界に新しく生まれることを意味します。
それで死のゆえに憂(ゆう)欝(うつ)になったり、悲しんだり挫折してはいけません。代わりに与えられた使命のために一生を生きて、霊的な勝利の中でもう一度生まれることを喜ばなければなりません。私たちが地上であまりにも悲しみに沈んだり悲痛に思うと、天上に上った人を地の下に引っ張るようになるのです。赤ん坊が第一の母の胎内から生まれ出たように、第二の宇宙的な母の胎内からまた別の世界に誕生する聖和式は、実際に男女が出会って結婚する、その式に比べることができます。悲しみの瞬間では絶対にありません。それは昆虫が堅い皮を破り繭(まゆ)から出て、新しい形態に、新しい存在として、新しい本質になるのと同じです。
人間が死ななければならない理由は、肉身によって制限された愛しかすることができないからです。無限な神様の真の愛の対象的実権をもって現(あらわ)そうとする時には、制限された肉身のみをもってしては駄目なのです。ですから無形の霊に和するほかありません。さらに真の愛の理想を全天地と共に同一化するためです。ですから死は、苦痛の道ではなくて、宇宙的真の愛を所有することのできる幸福の門を開門する時間だというのです。
開質問状&反論まとめ
「今日の訓読のみ言」復興集会 映像まとめ
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