生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
真の愛はだれもが願う1
1999年3月14日 ベルベディア
ベルベディアでの聖日礼拝で、真のご父母様は「真の愛はだれもが願う」と題して説教をされ(全文は『ファミリー』五月号に掲載)、「この御言を三億六千万組の祝福家庭に贈る」と言われました。十四日の説教を基に世界の新聞各紙にも発表されたものです。
愛を貴く思う以上にその相手を貴く思う人間にとって、最も貴く、かつ必要なものとは何でしょうか?それはお金でも、権力でも、また知識でもありません。命よりも貴く、空気や水よりももっと必要なものは、真の愛なのです。
ではどうして、真の愛が、私たちにとってこれほど貴く重要なのでしょうか?
人間が生きていくに当たって神様に出会いたいと願うように、神様も真なる人間に会いたいと思われるのです。しかし、神様が人間の中でも、男性か女性かのどちらか一方に先に会いたいと言われるなら、おそらく、お互いが不平を言うことでしょう。
そのため、神様は愛を先立てざるを得ないのです。愛を先立てさえすれば、男性と女性が一緒に会うことができるし、一緒に触れることができるし、また、一緒に分かち合うことができるからです。
世の中で最も貴いものがここにあるとするなら、男性も女性もお互いに先に、それを手に入れようとして争うことでしょう。しかし、愛こそがその貴いものだと分かれば、二人が一緒になって尽くし合いながら、それを得ようと努力することでしょう。
このように、愛というものはだれもが喜ぶだけでなく、愛だけが人間の欲望をすべて公平に満足させることができるという原則があるので、神様の救いの摂理も可能なのです。愛というものは、もともと神様のものです。しかし、いくら神様のものだといっても、神様お独りではもつことができません。愛には必ず相手が必要だからです。男性一人、あるいは女性一人だけでは、愛は成立しないのです。
ですから、男性の愛のために女性が、女性の愛のために男性がいるということになるのです。醜男であっても、醜女であっても、愛する相手が現れることを願います。それも、最も理想的な相手を願うのです。ですから、宇宙のいかなる存在を見ても、すべて主体と対象、プラスとマイナスのペアになっているのです。鉱物界、植物界、動物界、そして人間世界もすべてペア・システムになっているのです。
なぜなら、すべてのものが、このような相対関係を通して、真の愛を得ようと願うからです。この宇宙の中で、一人では絶対に手に入れられないものが愛ですが、反対に、相手が現れれば、愛で連結されたすべてのものを得ることができるのです。
同じように、子女がいなければ、子女を愛することのできる父母の愛が現れることはないし、子女に対する父母の愛の持ち主になることもできません。ですから、神様も真の愛を実現するために、その相手として、宇宙と人間を創造されたのです。
このように、子女の愛や兄弟愛、夫婦愛、そして父母の愛、これらすべては、主体と対象が一つになることによって現れるのです。主体と対象が一つになれば、これらを二つに分けることはできません。もし分けたとすれば、真の愛は破壊され、なくなってしまいます。ですから、離婚という概念はあり得ないのです。
男性が愛を感じるといっても、それは自分自身によるものではありません。女性から始まるものなのです。また、女性が愛を感じるといっても、やはりそれは自分自身によるものではなく、相手の男性によるのです。すなわち、愛の主人は相手なのです。
それゆえ、愛を貴く思う以上に、その相手を貴く思い、相手に感謝して尽くしてあげなければなりません。永遠に共に生きていくことのできる根本道理です。このように、夫婦が互いに尽くし合い、尊重し合って、真の愛で完全に一つになるとき、これを通して、サタンの血統は完全に根絶されるのです。
宇宙の中にあるすべての存在は、愛によって一つになることを願い、愛の中で生きることを願う、という結論になります。愛のために生まれ、愛のために生きて、愛のために死ぬ、ということになります。
人間だけでなく、あらゆる万物も願うのが真の愛です。ですから、万物の霊長たる人間は、神様がつくられた傑作品を抱いて愛するだけでなく、あらゆる万物に愛することを教えてあげるべき責任があることを知らなければなりません。万物は、このような主人を探しています。このような基準に私たち自身を照らしてみながら、自分を恥ずかしく思わなければなりません。
宇宙にいっぱいに満ちたすべての存在は、自分のレベルで相対と共に存在しますが、結局もっと高い愛の次元に吸収され、上昇するようになるという原則に従うのです。すなわち、鉱物は植物に、植物は動物に、結局は人間にすべて吸収されることを願うのです。ですからすべての存在は、捕まって食べられたり、吸収されたりして、もっと高い愛の次元に上がり、最後は愛の根源であられる神様の最も近い愛を受ける立場まで進んでいくようになるのです。このようにすべての存在が究極の目的地とするのは、正に真の愛の本質だというのです。
ダーウィンの「弱肉強食」という言葉は、このような愛の論理によって再び解釈されなければなりません。それゆえ、蟻や微生物までも真の愛を願うのみならず、自分を愛する主人のところに行って死のうとするのです。このような原則から神様の愛の最も高い対象として造られた人間は、すべての万物をみな食べたり、持ったりすることのできる立場にいるのです。
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