June.9.2015 今日の訓読のみ言
瞬間一日と一生の関係
天国を開く門 第四章 人生路程
皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成することができません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。
瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決できる所でのみ、勝利圏が決定されるのです。
このように、勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせ得る無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は瞬間にかかっています。
今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。
一時間なら一時間を、どのようにすればみ旨と一つになるかということが、み旨の国が成されるのを願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。
復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭まで、四千年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダム、エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が億千万年続いてきたということを考えるときに、その瞬間、瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知ることができます。
その一瞬の失敗で、歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の報いを受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡の窮地に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったというのです。このような事実を考えるとき、一時間、カチッ、カチッという瞬間が恐ろしいのです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに、一瞬でも時間の関係において飛躍があったり、穴が生じれば、永遠は中断されるのです。
それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、10代に行けなければ20代に行き、20代に行けなければ30代に行き、30代に行けなければ40代に行き、40代に行けなければ50代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、その人は、一生の間、み旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。
いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天国に行くことができず、一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入ることができないのです。それゆえ、信仰者は永遠を夢見ていくことも重要でしょうが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算して善の旗手(きしゅ)になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カインとアベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。
120年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたというのです。
アブラハムも同様です。神様が「あなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。……もろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッ、カチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが供え物をした時間も、何10年間供え物をしたのではなく、たった一日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福(かふく)の起源が組まれてくるのです。
今日、信仰者たちが恐れるべきことは、「終わりの日」に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と交差路を形成していくかという問題です。
開質問状&反論まとめ
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