生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
「祈りについて教えていただきたいのですが」
東京地区和動会における御言
一九六七年六月十六日
祈りについて。それは簡単だ。別に祈りを良くする必要はない。
痛ければ痛い。うれしかったらうれしい。それが最上の祈りである。真理にかなった祈りは、痛かったら痛い、うれしかったらうれしい。そういうふうにすればよい。それが自分の痛みか、家庭の痛みか、国家の痛みか、世界の痛みか、範囲が大きくなるだけで、別に、祈りに変わった方法はない。
祈りの方法としては、祈りは、自分を先立てて祈るな。「神よ、私の願いをかなえてください」、そういうふうに祈るな。世界を救って、世界に対する神の願いにかなうように祈り。「私に、いかなる時にも神の命令に従い、責任を果たす、そういう姿勢を我に持たせてください」。そうして、その立場に立つようになると、世界的人物になるんだよ。「何か祝福されたい、私にこういうようにしてください」、そういう祈りは必要ない。
祈りは簡単だ。世界のために、いかにして我が生涯を捧げるか。そのためには家で死ぬか、路傍で死ぬか、それとも供え物になって死ぬか。簡単だ、その気になれば。こういう時、自分の家で病気で死ぬよりも、神のために、その路傍で死んだほうがよい。路傍で死ぬより、供え物になって死んだほうがよい。そうなんだよ。そういう心持ちで祈れ。
真心をもって祈ったなら、その人のそういうところに神は期待して、そういう責任を果たしたら、これは、すぐに世界的使命を果たす位置に入るんだね。そうして、それを全うすれば、自分も知らずして世界的人物になる。世界まで行くには、自分の周囲に何かいいというものを残したら、それが邪魔になる。真っ裸になって走っても時間が足らない、そういう環境にあるのに、周囲のすべてに躊躇しながら、いかにしてそういう目的地まで行けるかというんだね。だから祈りは、そういうふうにするんだね。
統一教会の食口にとっては、祈りは、先生に対して祈ってもいいんだね。自分を中心として祈るよりも、先生を中心として祈れば、力が出る。「神」と言っても、これはちょっと遠いんだね。実感が出ない。人もそうだろう。自分を中心として自分のことばかり言っていると、皆が嫌うだろう。好まないだろう。同じだよ。神も同じだ。君たちは、みな神の分身である。神と人間はそっくりである。だから神的作用をずっと思いながら祈れば、「ああ、こういうふうに祈らなければならない」と、自然と分かるようになっておる。
また、ある責任を持った人がね、天のほうから祈りの題目を授けてくれる。何月何日までは、こういう題目で祈れ。題目を出してくるんだね。必ず地上において祈りの基準、地上において心情の基準を残さないと、復帰の条件が立たせない。なぜそうなるか。堕落したアダム、エバは、心情の基準を地上に残せなかった。完成基準まで残せなかった。それを復帰するには、アダム、エバが神に対して切実なる、懇切なる心情の基準を持たなければ、復帰の基準が立たないというんだね。だから真心込めて祈れ。だから、祈りが必要である。
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