August.15.2015 今日の訓読のみ言
祈りの内容について
祈祷の重要性 1979年4月15日
平和な家庭を想像してみましょう。その家庭において、突然、夫や妻が死んだらどうなるでしょうか。あなた方は神を恨むに違いありません。「神よ、あなたはなんという人ですか。私を愛すると言いながら夫(妻)を連れて行ってしまった。私はあなたを滅ぼしてやる」と。しかし、そういうことを言うかわりに、「神よ、あなたが与えて下さったすべてに感謝します。私はこの試練を乗り越えます。次の試練はなんですか。なんでも受ける覚悟です」と言わなければならないのです。そうすれば、あなたの信仰は篤く、そして強くなるのです。神は親です。あなたを憎んでいるわけではありません。あなたの愛する夫(妻)を連れて行くには、何か理由や目的があるのです。
統一教会における美しい言葉に、「蕩減」という言葉があります。「神よ、誰も死という重い蕩減を払う者はいません。しかし、あなたは私を選ばれました。私はこれを感謝して受けます」と、もしあなた方が生きているうちに愛する夫(妻)を失って辛い蕩減を払うなら、あなた方の子孫は限りない祝福を受けるでしょう。それに比べれば、あなたの失ったものは小さいのです。もし、あなたが本心からそれに対して感謝して、「神よ。私はこの試練を受けます。次はなんですか」という祈りをすれば、神は「おお、私の息子はなんとすばらしいのだ。祝福は自動的にあなたのものになるだろう」と言われるでしょう。祝福を受けるということは、神が決められることではなく、あなた方自身で決定することなのです。
あなた方は、そのような大きな試練に対して、感謝して受けることができますか。「次はなんですか」と。(はい)。良いことがあれば神に感謝できるが、悪いことが起これば文句を言い、神を恨むに違いないのが実状です。しかし、「私には何もできません。すべてを神に委ねます」と言える人が、蕩減というものの意味を本当に知っている人の態度です。統一教会の人は、最初は希望に燃え、目が輝いていますが、三年もたつと、その目は死んだようになりますね。(いいえ!)。では十年後はどうですか。(いいえ!)。本当ですか。では、信じましょう。
祈りは絶対に必要です。あなた方は、ひざまずき、頭を下げて祈るでしょう。しかし重要なことは姿勢ではありません。約束です。そのような環境をつくらなければなりません。それがなければ祈りは無意味です。キリスト教界をみてみましょう。何百万というクリスチャンが毎日祈っています。彼らは「キリスト教を滅ばして下さい」と祈っているでしょうか。彼らは「私たちに発展と繁栄とを与えて下さい……。何々を与えて下さい」と祈っています。しかし、そういう祈りと反対にキリスト教は衰退しています。なぜでしょうか。
では、あなた方は統一教会のために祈りますか。もしそうであるならば、あなた方は祈る必要がありません。統一教会のために祈るより、より大きな国のため、世界のため、神のため、神の解放のために祈りなさい。「神よ、私に大きな十字架を与えて下さい。統一教会の十字架は十分ではありません。もっと大きな十字架を与えて下さい」と祈っていることになります仕事をするためには、大きな責任と十字架を負うのです。小さいもののために祈る祈りは、受け入られません。神はそのような小さな祈りには興味を持っていません。あなた方が国や世界のことを話す時、神の目は輝き、興奪します。神は、どこに、誰の所に行こうかとエキサイトします。いかに大きなことに対して祈るか、ということが、私たちの中における訓練です。もし、あなた方が毎日毎夜、激しく神の為に活動していれば、たとえあなた方が祈らなくても、神は助けてくれます。だから心配しなくていいのです。
既成教会に行ったことがあるでしょう。彼らは自分の宗派、自分の教会、自分の牧師、自分の家庭について祈っていますね。そのような祈りを神が聞けば、神は心が痛くて、やめてくれ、と叫んで耳をふさぐことでしょう。しかしあなた方が、「この世界を救うために、神を解放するために、私を犠牲にして下さい。私の教会を犠牲にして下さい」と祈ればどうなるでしょうか。神様は驚くでしょう。神様はあなた方と同じように、人格をもっています。わかりましたか。自己中心の祈りは、神は聞くことができません。それは最も退屈な祈りであり何も起こらないでしょう。
あなた方は、神の国のため、神の義のため、世界、国家、神の解放のために祈るのです。それは祈りにおける主題なのです。大きいことのために祈り、それを達成しようとすれば、そこには冒険や危険があります。しかし神は「私が後ろについているから心配するな。迫害されても喜んで行きなさい」と言うでしょう。もし、あなた方がそれらの困難に立ち向かって、その壁を打ち破ろうと進めば、神がエキサイトしてあなたに代わって戦うでしょう。神は、誰が間違っているかを知っていて裁くでしょう。まず神は、あなた方が自分の力でその壁を破ることができるかどうかを見ます。もしあなた方が破れば、神は「私の息子よ、良くやった」と叫びます。しかし敵に対して、できないとか弱音を吐けば、親が「おとうさん、こわいよ。戦いたくない」と言う子供を恥ずかしく思うように、神もそう思うでしょう。
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