生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
神の嘆きが非常に大きいという
啓示を受けました
アメリカに対する神の希望
1973年10月21日
我々は神のみ旨とは何であるか調べてみなくてはなりません。なぜ神は人間にそのような困難な時を与えるのでしょう。個人的な救いは確かに、神の側においては重要なことです。神はそれをないがしろにはされません。しかしながらそれが神のなされる仕事の最終的な目的ではないのです。神は世界の救いのために、一つの家庭をその手段として呼ばれました。神は世界の救いを完成するため、人々を呼び集められるのです。神は世界救済の最終的な成就のために、神の闘士として一つの国を必要としています。
もし、今日のクリスチャンが自分たちのみの救い、自分だけの天国そして自分たちだけの安寧を考えていたら、彼らは神の目的に沿って生きていないのです。もし私たちが自分だけの家族の救いのみに関心を寄せるなら、私たちは神の祝福を受ける価値はありません。もし人々が自分の同胞、すなわち自分の国の利益だけに焦点を合わせるなら、彼らは完全に神の意志に反して進んでいるのであります。
神はそれぞれに救いを与えるでしょう。もしあなたが世界の救済のため神の闘士となるなら、あなたの救いは保証されるのです。今、クリスチャンの人口は世界の人口の多分七分の一くらいだと思います。しかしこの中でも献身的なクリスチャンは非常にわずかです。その献身的なクリスチャンの中で、いったい何人が人間の救済のために本当に励むでしょうか? 私たちはすべて世界救済のため我々自身を捧げなくてはならないのです。
神は、私たちが自己中心的に生きるのを喜ばれないのです。私は個人的にイエスと会いました。そして、神の嘆きが非常に大きいという啓示を受けました。今日も神はすべての人類の最終的な救済のために休みなく働いておられます。神はこの仕事を相続する神の闘士を必要としておられます。神の教会の目的は全世界を救うことであります。教会は神の手段です。イスラエル選民がイエス時代に忘れたのは正にこの事実でした。
中世になって教会は大きく破滅の道をたどっていったのです。キリスト教はその精神において分裂してきたのです。中世教会の教会制度はその力、権力、その繁栄のみに携わり、教会は政治的に経済的に莫大な力をほしいままにしました。教会制度はこの力を保ち、乱用し、神の目的を忘れてしまったのです。彼らは自分の地位に執拗にぶらさがり、いかなる反対者も容赦なく迫害したのです。教会の指導者たちはイエスの弟子の直系でありました。なのに、自分の罪から立ち上がることができないのでした。これらの人々のキリスト教精神は完全に死んだものとなってしまったのです。
しかし、神は前に進まなければならなかったのです。神は完全な答え以外には満足されないのです。教会は改革される必要があり、したがって宗教改革がこれに続いたのです。マルチン・ルターは新しいプロテスタント改革を始めました。この不満の花火は直ちにヨーロッパ中に広がり、教会の権力に対して反乱の嵐が巻き起こったのです。これらの反対者たちは、彼らの先祖の代からの古い教会を放棄したのです。全地域の義なる人々は、古い教義や習慣から解放されようと意を決しました。彼らは明らかに、教会ではなく神に礼拝したかったのです。彼らが望んでいるのは神のもとでの平等でした。最終的なる目標に世界を近づけるよう、彼らは神に加担したのでした。
真実に礼拝の自由を求める者は、逃げ出してしまうか投獄されるかのいずれかでありました。彼らの精神は確固たるものであっても反抗する力に欠けていました。しかし彼らは屈することを知らなかったのです。ある者はオランダに逃げ、彼らが自由に礼拝することのできる新世界、新天地、新しい土地を求めたのです。
新しい世界を夢見る者にとって、アメリカは魅力的なものであったに違いありません。アメリカが未踏の地だとしても、自分たちの切望する自由な礼拝を約束していました。清教徒も彼ら自身の社会共同体をつくるという強い願いを感じていたのです。アメリカはそれには理想の土地であったのです。彼らは勇気をもってそこに出かける決意をしたのです。彼らは大西洋に出て、おぼつかない旅に出たのであります。自分の命よりも強い信仰に力を得ながら彼らは命懸けの旅に出たのです。
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