懐かしきエデン 『文鮮明先生み言選集第六巻』
イエス様は怨讐に対して幸福を祈りました。両手と両足にくぎを打ち込んで、頭にとげの冠を被せた彼らに対して幸福を祈りました。槍で横腹を刺す無知な怨讐に対して幸福を祈りました。なぜそうしたのでしょうか。それはイエス様が、最大の精力を傾け、心中に切ない事情をたどられた御苦労の結果として神様が造られた人間だという事実を、よく御存じであったからです。
イエス様はこの地へ来られて30余年の生涯を経ながら、瞑想あるいは心の中で神様と完全な関係を結んでいました。それゆえ彼は本然の真の人でした。彼は万物が恋しがる人であると同時に、神様が恋しがることができる人でした。
今日、人間も自分が作る物に対して、きょう完成せずに途中で終われば、あすその残りを続けて、完全に仕上げをしようとするのです。神様もやはり同じです。神様が人を造っておいてどれほど喜ばれたのか、その心情世界に入って体恤した人がいて、その人が踊るならば何10年でも踊りたいというのです。
今日信仰者が言っているように、そのように簡単な法則の価値を通じて現れるような人間は必要がありません。人間は法則で測ることのできない無限の伸縮性をもった絶対的な原則を通じて造られたので、その価値を測れないのです。そのような人を見てみると、神様は御自身の全体の属性を感じることができ、全宇宙の感情が流れているのを感じることができました。それを見つめるようになるとき、神様は限りなくうれしかったというのです。
神様が見つめて喜び、恋しがられ、そして万物も主人になってくれることを待ち焦がれながら願った対象が、アダムとエバでした。このように神様が恋しがり、万物が恋しがったアダムとエバはどのようになりましたか。堕落によって落ちてしまったのです。それによって恋しさが恨みと化し、幸福と願いが嘆きと絶望と化し、生命が死亡と化し、愛が号泣と化したという事実は本当に悲しいことです。
このような恨めしい先祖に仕えているという事実に、言うに言えないほど嘆かなければならない立場に置かれているにもかかわらず、私たちの中には嘆かわしい事実がどこから出発して今日の私たちと関係を結んでいるかを知らない人がたくさんいます。これをけ飛ばし、嘆かわしい心情を掃き捨て、人間本然の心情を探し、歓喜の声を高める群れはこの地上にいないのだろうかと、天は探していらっしゃるのです。
天が恋しがることができ、万物が恋しがることができる価値的な人が今日こういう姿になったので、審判を受けなければなりません。これから私たちが審判を避けようとするならば、父を恋しがる心情の合格者になるよう願います。エデンにアダムとエバを造り楽しんでいらっしゃった心、行ってみたくて、会ってみたいその心、その心情に合格することによって審判を避けて歌うことができる一つの勝利者になれるよう願います」と祈らなければなりません。天はそういう私たちになることを望んでいます。
天倫を恋しがることができる私自身になると同時に、人が恋しくなる自分にならなければなりません。神様が神様の心情を体恤できるようにするために一男一女を造ったことが、どれほど有り難い恩賜かを考えなければなりません。
地上に男性がいて女性がいますが、彼らは神様の全体的な性稟と性相の代わりに立てられた存在です。したがって、一人の女性を愛することができる男性にならなければならず、一人の男性を愛することができる女性にならなければなりません。神様の心情を通じて、アダムが願った基準の心情とエバが願った基準の心情をもった者として、自由を享受して天を抱擁できる夫婦が地上にあるならば、彼らにすべての宇宙を渡して安息するのが天のみ旨であることを、今日人間は知らずにいます。
人間は、こういう心情の法度を蹂躙したので、今日心情の世界で無限の恋しさにさまようようになったのです。ある趣味をもって、芸術を通じ、学問を通じ、または地上のある愛の対象を通じて恋しさを埋めようとしましたが、埋める道がなくてさまよう姿が堕落した人類の実像です。これが歴史的な悲哀であり、悲劇です。
そういう恋しさが皆さんの心にわき上がるとするなら、本然の園を恋しがった万物と共に、その本然の園を恋しがることができ、本然の心情を通じて神様の心を率いていた本然の人の形態を備えて、天を恋しがることができる人にならなければなりません。そのような人になれば神様は両手を挙げて「そうか。私の息子よ、私の娘よ」と言いながら捕まえざるを得ないというのです。