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今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

神様と人間は父子の関係(9月5日)

Sep.5.2016 今日の訓読のみ言

神様と人間は父子の関係

真の神様 第一章 神様の本体より抜粋

 

 神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入ってこの宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だという答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。

 

 天地の中心と宇宙の根本とは何ですかと、神様に祈祷してみれば、父と息子、娘の関係、父子の関係だと言います。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、神様との根本関係を言っているのです。

 

 神様がなぜ人間を創造されたのかといえば、一人でいれば刺激がないからです。喜びとは相対関係によってわきいずるものです。一人では喜びの刺激を得ることができません。神様の相対的位置に立って初めて最高の愛を得ることができるのです。そのようになれば、神様の性相がそのまま実体化されます。神様が悲しくなれば人間も悲しくならざるを得ません。ですから人間と神様の関係は離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。どんなに研究してみても、ここに到達するようになるのです。

 

 神様と人間が父子の関係だと言いましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。父と息子が出会うことができる最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば愛と生命と理想は一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる最初の因縁が、父子の関係です。

 

 神様は私たちに愛を与えるとき、どれくらい与えたがるのでしょうか。神様の愛はこれくらいならいいだろうという限界を引いて与える、そんな愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様はすべて与えても、「お前によって、お前の中で生きたい」と言います。そのようにさせる本質とは何でしょうか。愛です。神様も愛の中に入って僕になってもいいというのです。父は愛する息子が自分の食卓の上に上がってうんこをしても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。

 

 神様が今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、お前たちはなぜくれないのか」と、このように言えますか。絶対的な愛をもった神様は、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしがっています。自己を主張することができない神様です。完全な愛を与えようとしたのが神様の人間創造の目的ならば、神様は今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたがる神様です。そのような神様なので、考えるほどいいのです。「私はすべて与えたので、これからはお前たちがもってこい」と言う神様ならば必要ないのです。

 

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて投入して創造した人間なので、神様を引っ張れば引かれてこざるを得ないのです。

 

 神様は愛のために創造しました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が愛し合うのを見るのがもっといいのです。それゆえ、神様は存在世界の前に現れるとき、愛の本質として現れます。

 

 子供は、お母さんとお父さんの愛の実現体であり、投入体です。お母さん、お父さんの生命の延長体です。またお母さん、お父さんの理想の具現体です。子供はお母さん、お父さんの愛と生命と理想の基盤から生まれるので、父母はその子を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対なのです。

 

 神様と人間は、絶対的な相対として愛の関係を中心として生まれた存在です。その位置が、神様は父となり、私たちは息子、娘となる位置です。もしそれ以上の位置があるならば、人間の欲望はまたその位置を占有しようとするのです。人間の欲望は最高を追求するので、それ以上のものがあったとしたら私たち人間に与えなければならないのです。このような点から見るとき、当然神様は人類の父であり、人間は神様の息子、娘です。

 

 神様が人間を造るとき、無価値に造ったのではないことを知ることができます。無価値に造ったのならば、神様は異常な神様です。神様は絶対的な方なので、何でもすべて知っています。それなのにそれを知らずに造ったならば、その神様は不完全な神様です。神様は絶対的な方なので、私たち人間を造るときも絶対的な相対として造りました。

 

 天地を創造した神様はどんな方でしょうか。極めて善なる方であり、すべての万物の根本となる方であり、愛の主体です。ですから神様は天地万物を創造したのち、全宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は自分が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのものを任せることのできる人がいれば、一番貴いものをそっくりそのまま与えたいのです。

 

 神様が私たちの父ならば息子、娘を造るのに、いい加減に造り、駄目なものを造りたくなかったのは間違いないことです。神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。

 

 神様が絶対的な方であられるのなら、その絶対的な方がなぜ人間を造られたのかというのです。お金のために造ったのでもなく、知識のために造ったのでもなく、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるただ一つの道のために人間を造られました。このような観点から見るとき、神様は父であり人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結されていたならば、人間と神様が愛によって一体になった関係に、何が作用しても絶対に離すことはできないのです。

 

 神様は人間を創造するとき、完全に投入することによって、より価値があり理想的な完全な形で展開しました。神様はアダムとエバを造られて、彼らのために生きるというのです。神様のためにではありません。自分のために生きていたときから、相手のために生きるときに展開されました。理想的な存在は自分を中心としません。理想的な存在は、人のために生きるところに、対象のために生きるところにあります。この原則が宇宙の根本です。

 

 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方であったとしても、お一人ではうれしいはずがありません。「幸福」という名詞、あるいは「うれしい」という言葉は一人では成立しない言葉です。必ず、相対的な関係を備えた立場においてこそ「うれしい」、「幸福だ」という言葉を語ることができます。一人でいて「幸福だ」と言う人がいますか。どんなに全知全能な神様であっても、お一人でいては幸福ではありません。歌が上手な声楽家が、誰もいないところで歌を歌ったとしましょう。それで幸福ですか。そこには相対がいなければなりません。与えたり、受けたりすることができてこそ、うれしいのです。それゆえ、神様も喜ばれるためには、必ず対象がいなければなりません。

 

 神様は完全に投入して愛の対象を創造しました。そのようにしたのは神様も愛の対象が必要だったからです。ところが愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。千辛万苦を経て、自分の一二〇パーセント、何百倍を投入して造ったのです。

 

 神様の天地創造を考えるとき、既成教会の信者たちは「神様は全知全能なのでみ言で造られた」と信じています。しかし魔法を使うように、そのように造ったのではありません。知性の限りを尽くし、自分の身を全部投入して息子、娘を創造しました。ですから愛するのです。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の全体中の全体を投入したので希望の対象とするのです。

 

 神様は、創造の理想的出発点をどこに置いたのでしょうか。神様の前にすべて「ため」に生きよ、というのではありません。「お前、私の所に来てくっつけ」という吸収ではありません。投入です。「くっつけ」ではなく投入です。その言葉を振り返れば、「ために存在する原則」に理想的出発点を置いています。ですから神様は、人間のために投入しました。神様自身は人間のために存在します。

 

 神様が「私は愛である」と言いましたが、それは何でしょうか。夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで「私には愛がある。すべてある」と言ったのです。「すべて」という言葉は、その中に全部入っているということです。愛が一番好きな方は誰かと言えば、神様です。そんな愛をすべてもっている神様なので、その愛の味を占めれば死んでも離せないのです。

 

 神様は全知全能で、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、その全部の価値よりも貴く立てて誇りたいものがあるとすれば、それは何でしょうか。神様は、ただ愛のほかは必要ないというのです。愛以外は必要ないというのです。

 

 創造理想完成はどこから始まるのでしょうか。創造理想完成は神様から始まるのではなく、人間から始まるのです。創造理想完成なので創造物から始まります。創造物の中心は人間です。ゆえに人間の完成がない限り、神様の完成はあり得ません。神人一体なのでそうなのです。

 

 神に一致することができる、神のみ旨に一致することができる、神のみ旨を中心としては過程的み旨ではなく、完成的み旨の中心の核と一致することができるそれとは何でしょうか。それが神様の全知全能なのでしょうか。全能性をもってしても駄目なのです。全権でしょうか。違うというのです。それでは遍在する素性でしょうか。それも違います。それは何でなければならないのでしょうか。神様自身も生きて生活するのは、もちろん霊界があって時空の関係を超越したところで生きていくのです。生きていくには何を中心として生きていくのでしょうか。無限な力がある、遍在する、全権的権限がある、それではありません。神様も愛を中心として生きていく、このように見るのです。生きていくには始まりもそうで、過程もそうで、永遠にそうなのです。神様も真なる愛の対象をもつようになれば喜ぶからです。

 

 神様は絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え与えて、また分け与えても限りなく補充することができる愛の倉庫をもっています。それでは、神様の倉庫から愛を多く盗んで、夜も昼も限りなく愛を取って分け与え分け与えるとき、神様が「やあ、こいつ! 盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしょうか。全知全能な神様なので、「そのようにしろ、してもいい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ。お前が入ってきても余る。それで私が神様だ。だから私が主体だ!」と、神様がそのように言われるのです。「私が主体なので、客体に与えても残ってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えても余ってこそ主体としての神様であって、そうでなければ神様になれない。私がそうなのだ!」と言われるのです。「私から愛を盗んで神様の愛の発電所のように限りなく与えたいならば、いくらでも補給してあげよう」。それで「これが全部なくなれば私はまたもっていきたいのですが、神様の愛のパイプに私を連結したらどうでしょうか」と言う時、「そうしたければしなさい」と言うのです。

 

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