今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

神様の摂理から見た南北統一 4-5-5 お互いに愛する心がすなわち統一の方案(12月6日)

Dec.6.2022 今日の訓読のみ言
 

神様の摂理から見た南北統一
 
第四章 統一の根本理論
第五節 統一は真の愛によって




五.お互いに愛する心がすなわち統一の方案

 

 我々の教会を統一教会と言うでしょう? 「統一教会」、この言葉は本当にいいです。統一教会が統一されるならば、何がなければなりませんか。「統一できる真理がなければ」という人もいるでしょう。真理があっても統一できる情緒的な内容がなければそれまでです。問題はこれです。宗教人は宗教人同士、互いを和合させることができる真理があっても、そこに和合させることができる情がなければなりません。お互いが会わなければならず、お互いが見なければならず、あなたでなければ私がだめで、私でなければあなたがだめだという情緒的な内容がなければなりません。ところが互いがかみ合って、互いに(自分の方が)優れているとひたすら言い争ってはならないというのです。互いに優れていると言い張って一つになることができますか。お母さんは、お母さんが優れているといい、お父さんは、お父さんが優れているというならば一つになることができますか。なれないでしょう。

 

 それでは統一できる方法は何でしょうか。互いに愛することです。相手方が哀れに思えて愛することもでき、好きでも愛することができます。夫婦同士、初めからよくて愛する人は別にいません。だんだん愛することができるのです。ある婦人が夫を見ると性格が片意地です。その意地っ張りのおじいさんを誰が愛するかというのです。けれどもその婦人は「あの片意地ゆえにどんなにぶつかることが多いか」このように考えて、かえってかわいそうに思うというのです。そのようにかわいそうに思って愛してやれば、そのおじいさんは一番孤独で悲しい時に、婦人の所に行き訴えるようになっています。そのようになるのです。また、そのおじいさんが頑固なのを見れば、自分は頑固でないので、おじいさんの頑固が使い道のある時もありますからね。だから好きでも愛することができ、かわいそうでも愛することができ、そのような心だけもつようになれば統一されるのです。

 

 情緒的な分野において、自身より相手方がかわいそうだという心をもって前を築いていくようになれば、自然に一つになることができる道が生じるのです。父母が子に対して憤って手で殴ればどうですか。父母がすぐに悔い改めなければならないというのですか。そうでなくて、ただ子供がかわいそうで、お母さんが涙をぽろぽろと流しながら愛すれば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか。そのようにすれば、お母さんは屈服しないでいつでも勝利者として、その息子、娘を屈服させることができるのです。むしろ殴れば効果が少ないというのです。兄が弟を最後まで憎んだら兄がかえって屈服させられます。そのようになり得るでしょう? (はい)。それゆえ、統一するには何がなければならないですか。情緒的な分野がなければなりません。統一されない所には幸福がないというのです。「統一される。統一できる」という言葉は、統一させることができる情緒的な内情が宿っているということです。

 

 統一教会はキリスト教を統一してみようというのです。統一するところにおいて、世界に数多くの教派がありますが、統一教会員以外の人々は我々と関係ないというならば統一されますか。数十、数百余りの教派を中心として、彼らをかわいそうに思いつつ愛することができる心がなければなりません。このような心があれば、彼らに欠点があっても許してあげることができるのです。神様が我々人間が罪を犯したことをみな許してくださったのも、最後まで哀れに見る心があるからなのです。「お前はまだ罪人である」という心があれば許してくれたでしょうか。そのように許すことにより、すべてのものが一つになるということを、皆さんが知らなければなりません。

 

 それゆえ、この情緒的な分野を抜いてしまえば何もできません。分かりますか。友情を取り除き、愛国心、すなわち国を愛するその情を取り除き、父子の情を取り除き、夫婦の情を取り除き、兄弟の情を取り除いてしまえば、砂粒だけの砂漠のような世の中になるのです。その中で統一がありますか。そのような情を取り除いてしまえば幸福がありますか、ありませんか。(ありません)。そのような世の中で生きたい人はいないというのです。このように見る時、人間はお互いに情がなければなりません。(四一―三三二)

 

 統一運動は何で? 愛で。弟子が師匠をつかんで涙で忠告し、師匠が弟子に会い涙で忠告し、子が父母をつかんで涙で忠告して愛さなければなりません。姉が弟妹を、弟妹が姉を、兄弟同士、同胞同士がこのようにできなければなりません。明日自分の生命の消える恨があっても、このことをできなければ自分が死んで目を閉じることができず、恨を残すということを知らなければなりません。これが統一の群れです。それが師匠が行く道です。私が行く道が問題ではありません。神様が訪ねてくる道です。それを知らなければならないのです。(一六二―三二五)

 

 なぜ愛を基として統一の因縁を探して行くのでしょうか。愛がなければ臨時であるためです。しかし愛があれば永遠に連結されるのです。永遠です。愛する夫が死んだといって妻の愛が清算されますか。夫は死んだけれども妻の胸には、その夫が生きている時よりもっと切ない愛がわだかまっているのです。(五〇―一一五)

 

 統一はどこで起こるのでしょうか。「統一はもう統一で起こるだろう」というかもしれませんが、そうではありません。統一されるためには何が必要でしょうか。因縁がなければなりません。因縁がなくては関係が結ばれません。その関係はどのような関係かというならば、主体と対象の相対的関係が結ばれることを言います。そうでしょう? ここで「やあ」と言うならば「おう」と言い、ここで「来い」と言うならば、「うん」と言うことのできる相対的な環境で関係が結ばれるのです。

 

 それではその相対的関係では何を中心として一つになるのでしょうか。ここには共同目的がなければなりません。共同目的がある時は一つになることができます。一つになるには二種類しかありません。目的が一つにならなければなりませんが、目的が一つにならなくても、互いに愛するようになる時は一つになることができます。(五〇―一一四)

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