生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
野原をわが家のように
自叙伝 P.15
野原をわが家のように思って暮らした幼い頃、私は朝ご飯一杯をさっと平らげては外に飛び出して、一日中、山に分け入り、川辺を歩き回って過ごしました。鳥や動植物の宝庫である森の中を駆けずり回り、草や実を取って食べてみると、それだけで一日おなかが空くのも忘れるほどでした。幼い心にも、森の中にさえ入っていけば体と心が平安になると感じていました。
山で跳び回っているうちに、そのまま眠ってしまったこともよくあります。そんな時は、父が森の中まで私を捜しに来ました。「ヨンミョン!ヨンミョン!」という父の声が遠くから聞こえてくると、眠りながらも自然と笑みがこぼれ、心が弾みました。幼少の頃の私の名前は龍明です。私を呼ぶ声ですぐに目が覚めても、寝ているふりをして父に背負われていった気分、何の心配もなく心がすっと安心できる気分、それこそがまさしく平和でした。そのように父の背中に負われて平和を学びました。
私が森を愛したのも、その中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたからです。森の中の生命は争いません。もちろん互いに食ったり食われたりですが、それは空腹で仕方なくそうしているのであって、憎しみからではありません。鳥は鳥どうし、獣は獣どうし、木は木どうし、互いに憎むことはありません。憎しみがなくなれば平和がやって来ます。同じ種どうしで互いに憎しみ合うのは人間だけです。国が違うといっては憎み、宗教が違うといっては憎み、考えが違うといってはまた憎むのです。
森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場で鳴くカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の間の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。
私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が 一つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。
春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。
自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。
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