今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

霊界協助と私たち1(8月8日)

Aug.8.2019今日の訓読のみ言

霊界協助と私たち(1)


『真の父母様天宙勝利祝賀宣布』P7279より

 皆さんは今、霊界の協助を受けなければなりません。

 先生が話したように、霊界がすべて地上を中心として再臨し、協助することのできる態勢(たいせい)を備える時になったのですから、皆さんがいかにしてその焦点となり、ここに活用しうる自身の基盤をつくるかということは極めて重要なことです。

 

それ故、観念において変革をしなければならないのです。霊界の協助を受けるには、私が霊界の協助を受けるにふさわしい環境的要件を持つことができなければならないのです。では、そうなるためには、どうすべきなのでしょうか。地上にある物であれ、教会に属する物であれ、統一教会の食口の皆さんの手に届く物はすべて神聖な物です。神聖な物。霊界の霊人が皆触りたがり、接したがっているという観念を持たなければなりません。

 

それ故に、物に対する基準において、どのように考えなければならないかというと、「次元の高い神聖な物だ」と考えるべきです。別の言葉でいうと、この世の骨董品の中で最も貴い物のごとくに考えなさいということです。神様の手を通した物を、私が今触っていると考えなければなりません。そのように考えると同時に、その聖なる物が「私」という人を、そのように神聖にタッチしてくれることを願わなければなりません。

 

 その為には、私がすべての物にタッチしてやることによって、それが栄光だと感じるはずだという思いを持ちなさいということです。物に対してもそうなのですが、人に対してはそれ以上に接しなければなりません。神様が直接その人に接するように、皆さんも接することのできる心をいかにして持つかということが問題です。物に対してもそのように考えますが、人に対しても同じです。他の人はどうするかということが問題ではありません。私がどのようにその人に接し、感じるかということが問題です。

 

 物を神聖な物だとすると、人は物以上の位置にあるのです。人を神聖な神様の息子として考えなさいということです。そして私の手がその人の手に触れたならば、私によって恵みを受けることを実感すべきです。

 

 人には心と体があります。私には心と体があるのです。二人の人がいるのと同じです。すると結局は、相対的世界において物を神聖なものとして見て、そして人をも神聖なものとして見るのと同時に、私の体も神聖であり、私の心も神聖であるということを感じなければなりません。私が真実な心をもって、自分の体を触ってやれば、体が喜ぶということを感じなければなりません。

 

 真実な心を持たなければならないのです。そのようになれば、心の後には神様の愛が訪れるのです。どういうことなのかわかりますか。このような心情を持たなければなりません

 

結論付ければ、すべてのものを聖物として扱いなさいということです。聖物として。神聖な物として扱いなさいということです。その次は、神聖な体、人を神聖な人として神聖な神様の体のように考えなさいということです。自らの体を神様の体のように考え、自分の心は神様の心であると考えなさいということです。

 

 このように訓練していけば、どうなるでしょうか。心の声を聞くのです。心の声。そうなれば、悪なる霊がその環境を占領することはできません。悪なる霊が近づけないということです。悪なる霊がいないので、善なる霊だけが来るのです

 

このような自身をうち立て、そのような環境的生活圏を作り、霊人を呼び出すのです。そうして霊界呼んで何をするのかというと、強力な人に触れさせ、強力な力に触れさせます。そうなれば、皆さんがいくら悪いベッドで寝たとしても、そのとき神様に招待されて、天国の王国で接待を受けて暮らしていると感じられるようになります。

 

 そのように考え、生活すれば、必ず霊界の善なる霊たちと関係を結ぶことのできるすべての環境与件となり、私自身がいる所は神様と共にいることのできる所となるのです。多くの霊は神様を中心として動くので、ここに再臨しうる基台となることができるということです。

 

 皆さん、有名な人が持っていたハンカチであるとか、遺物といったようなものは、たいした物ではないように見えるのに、なぜ値が高いのでしょうか。それはなぜ高いのでしょうか。聖なる価値の基準を持っているがゆえに高いのです。それと同様に、私たち自身が聖物圏内に入った環境的要件に、自分自らの心的動向が動くというのは当然なことです。

 

 皆さんが常に考えなければならにことは何でしょうか。寝る前に瞑想するとともに、一日の生活を反省し、目覚める時は目覚めるやいなや、自分が深いところから上がってくるということを、心から目覚めるという感覚を受けなければなりません。そのようにしてこそ、霊と遠かったのが近づくようになるのです。

 

 そのように生活して収拾していけば、心が私をコントロールするのです。心が。私がどこかへ行くというときには、もうすでに自分自身が共鳴物となります。音叉と同じ立場でそうなると考えれば、いつでも心と体は、公的な主人の心をもって事物に対すれば、その良し悪しが電波のようにすべて感じられるごとく分かるのです。

 

 そのような心でもってずっと訓練していけば、ある人に対し、その人が良い人なのか悪い人なのかがすぐに分かります。そのような心が入ってくるのです。皆さんがそのように霊的に見るならば、自分の霊人体が行くのが見えるのです。その人を中心として喜んでついて行くのが現れるときがあるのです。自分の霊人体が外的に現れて活動するのです。そのような境地にまで到達します。

 

 常に注意すべきことは、私の私心を持っていてはならないということです。公的な心を持たなければなりません。何か困難なことがあれば、私が行って全体のために私が手助けしようという心をもって、いつでも行動しなければなりません。消防署、機動隊のような心の姿勢を持っていなければなりません。

 

 ではなぜそうしなければならないのでしょうか。霊界がする前に私がしなければならない、霊界が行く前に私が行かなければならないと考えなければなりません。人は本来霊界を支配するようになっています。本来アダムが天使世界より前にいるために霊界がする前に、霊界が行く前に私がまず行かなければなりません。ではなぜそうなのでしょうか。本来は人が霊界を支配しなければならないからです。これが重要です。


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