神山先生の講話
2014年9月14日 SEOUL
再び、皆さんにお会いすることができたことを、心から喜んでおります。先回、ここでお会いした方々も、多くいると思います。どのくらいいるのでしょうか。初めての方、どのくらいいるでしょう。
ありがとうございます。
先回、ソウルで、そして釜山で多くの方にお話しました。その話が世界中に飛び回っています。そして、私自身についていろいろなことを言っている人が沢山います。たぶん皆さんも聞いた事があると思いますが、神山はご父母様に対して反対し、ご父母様を批判していると、そう言う方々も多くいます。
昨夜は、ほとんど私は深い眠りにつくことができませんでした。祈りの中で、過去を振り返り、反省する一時を持ちました。そして、霊界に居られる お父様に祈りの中で問いました。 今お父様が願われていることは何でしょうか。と、涙の中で祈り、答えを求めました。 お父様の国であるこの地に来て、何を語ったら良いのでしょうか、お父様の答えは ー
「神山! 心配するな、叫べ! 多くの人は神のみ旨がなにか分からない、先生がだれか分からない、恐れないで、本心が願うことを叫べ。神山の良心が願うことを叫んだらいい!」 と 。
そういう中でみ言を見出しました、与えられたお父様のみ言を紹介しますモーセがカナンの地にエジプトから60万の民を連れて出ました。その様子をお父様は語られております。
「イスラエルの第一世はハゲタカの餌食になりました。モーセとひとつにならなかった民族はハゲタカの餌食になったと同様に、今日の統一教会で先生とひとつにならなかった第一世は、ハゲタカの餌食になり得る立場に立っているということを知らなければなりません」
絶対信仰と絶対愛 1994年10月 9 日
韓国・中央修練院にて (抜粋のみ言)
今日、統一教会で先生と一つにならなかった第一世は、ハゲタカの餌食に・・・。このみ言を拝読しながら、過去をずーっと振り返ってみました。お父様と共に歩んだ時代を思い出して見ました。その中において、私はお父様の前に、本当に服従し一つになりえただろうか。お父様を不信したことがなかっただろうか。と、自問しました。いろいろ反省させられる事が多くありました。
今、過去を悔い改めて、お父様の言われた「統一教会で先生と一つにならなかったら、ハゲタカの餌食になる立場に立っていると知らなければならない」と。カナンの地をモーセは目前にしながら、60万の民とカナンの地に入ることができなかった。
今、私達 一世が、考えなければならないその事は、お父様が基元節を
2013年 1 月 13 日と、決められその日をどれだけ待っただろうか。その待つお父様の姿を私は見てきました。
お父様が霊界に逝かれるまでの2年の間、私は麗水の地に人事になり日本人の教育責任者として修練会を担当しました。お父様は時間さえあれば麗水に来られました。時間を作ってでも来られたのです。そこでお父様のみ言を多く直接に賜りました。私がそこで感じ見たお父様は、どのようなーお父様であったかというと、恨の心情を抱かれ無念の思いを持たれておられる、お父様を私は見たのです。
無念の心情を抱いておられる、お父様を私は拝見しました。真のお父様が神様を解放しよう。神様の悩みを、神様の苦しみを解放しようとして、今日まで長い年月歩まれたお父様を拝見してきたのです。麗水で接したお父様は無念の心情を抱かれておられた、お父様の心情を、私は見たのです。私は何としてもお父様の心情を解放してさしあげなければならないということを強く感じていました。私はお父様から教えられたことがあります。
親として、子供を持つ親として、子供にこのような事を聞いたらいけないよと言われた事があります。父親が子供に向かって「お父ちゃんと、お母ちゃんとどっちが好きなの?」こういう事を聞いてはいけないと。子供に聞くお父さんは「お父さんが好きよ」と言われることを願って聞いたと思います。私がお父様から教えられた内容は、そういうことを、どっちが好きなの?なんていう事を子供に聞いたらいけない。と言うことでした。
そのお父様が・・・・・ 。
ラスベガスで責任者が集まる訓読会がありました。そこには約70人ぐらいの責任者が集まっていました。お父様とお母様もおられ、お父様はそこに集まった責任者に何かをしてあげようというそんな思いで溢れておられる、そんなお父様の姿を見ました。
ある指導者に「ここに来た人達に何かしてあげたいから、お金がどのくらいあるかな?」と尋ね、その時に、この人は「お金なんかありませんよ」と言って自分の財布を出して、開 いて見せて「お金なんかありません」 と。その時お父様は、そこに集まった人達に「申し訳ない」という心情を持たれた、そのお姿を私は見ました。そうこうしているうちに、お母様が席を立とうとされた時、お父様はお母様に「オンマ、ここにいなさい」と。しかしお母様は ・・・ 、私が見た出来事の情景としてお話しますね。
お母様は正直いって、お父様を振り切って行かれました。トイレに行きたかったのでしょう。しかしお父様は「ここにいるんだ!」 それでもお母様はお父様を振り切って出て行かれました。お母様をーお母様を「呼んで来るように」と。言われ、そこにいる責任者に指示され、その人が立ちあがり迎えに行きました。帰っていらっしゃらないので、また一人が立って行き、それでも来られなくて、また一人が行き ・・ ・・ そのような時がありました。私はその時、お父様の様子をじっと見つめていました。お父様の心の中を見るかのようにお父様をずっと見ていたのです。
そうこうしているうちに、お父様が「神山!」と突然私に呼び掛けるのです。「お父さんと、お母さんと、どっちが正しいんだ」。こう聞かれるのです。私は、答えたくありませんでした。私がお父様から教えられたのは「お父ちゃんと、お母ちゃんとどっちが好き?」そんなこを子供に聞くなと教育されているからーそれと同じような質問のように感じました。私は答えたくなかったので曖昧に 「はい、正しいです」とだけ答えました。 即座にお父様は「どっちの立場で言ってるんだ!。先生の立場か。お母様の立場か!」と。私はその時、本当にショックを受けました。本当にショックを受けたのです。その事が私の脳裏に焼きついて忘れられません。
メシヤというお方をどのように今の教会の人たちが考えているのか。私はお父様の近くにあってお父様を知り、この方はメシヤだと信じてきました。その私が捉えるメシヤ観と今ある教会の人達のメシヤ観と違いますか?違いますね。
こんな事をいうと 教会の方が、何だ!というかも知れません。今、皆さんの前で読みました。メシヤという方は長い蕩減復帰歴史が生み出した一人の方であり、そして神様が持つ真の愛の全てをそこに注ぎ込み植え付けた一人の方です。
そのお方の使命は何かというと、まず目に見えないサタンとの戦いがありそのサタンを自然屈服させなければならないのです。アダムエバが堕落したのでこの世界はサタンが主管する堕落圏になってしまった、その堕落圏の中から一人の女性を見出して相対にし、そしてその方と真の家庭をつくることでした。
私が信ずるメシヤとは絶対主体である神様の前に絶対愛、絶対信仰、絶対服従の基準をたて、神様の真の愛の全てを相続している方であり、絶対主体圏にたつ神様の長男であり、神様との関係は父子の関係にあると信じています。ですからその方を私は絶対視しなければならないと主張するのです。
しかし、今のお母様そして多くの教会指導者はお父様を相対的価値の存在として見ているのではないでしょうか、だから真のお父様の前であのような事が出来るのだと思うのです。
メシヤの前に絶対愛、絶対信仰、絶対服従の基準をもって未来の神様が願う地上、天上天国を築かなければならないと私は信じているのです。これが私のメシヤ観でありお父様のメシヤ思想だと思うのです。真のお父様から教えられた私の基本的な考え方です。
しかし、今、お父様の位置がないがしろにされている現状を見るとき、私はそれを納得し認める事が出来ません。お父様を絶対的な価値の存在でなく相対的価値の存在として見ると言うことは、メシヤとして見るのではなく普通のこの世の指導者と同じような立場として見ていると思うのです。お父様を相対的価値の存在として見ているので自分の都合のいいように考えー お父様の伝統を変えみ言を改竄してしまうのです。そう思いませんか・・・?
絶対主体圏に立っておられるお父様~再臨のメシヤと信じていたとしたら ー、その方の前であのような態度はとれないと思うのです。お父様が築いてこられた伝統を変え、み言を改竄してしまう~、絶対に出来ないことです・・・。恐ろしい事です、神様を敵にしてしまうようなことです。お父様の前に怨讐となってしまう・・・。恐ろしい、恐ろしいことです。
お父様のみ言を紹介します。
「万民を救援するために地上に来られた、イエス様の怨讐が誰だったでしょうか? このお方を絶対的な価値の存在としてではなく、相対的な価値の存在として見た人々が、正にイエス様の怨讐でした。それでイエス様は彼らの中に、ご自身の本性と関係を結び「あなたがたの心でありわたしの心」とすることのできる一人の存在が、出てくることを苦待されたのです。このような一人の存在が現れたなら、イエス様は十字架に逝かれたとしても、この方の愛と理念は地上に立ったのですが、そうはならなかったことがイエス様の辛さであったことを、皆さんは知らねばなりません 。
「御国とその義を捜し立てよ 」 1957年10月 13 日 より抜粋
そのような状況のなかで、私が悟ったことは、どの様な方の前であってもー メシヤとして絶対主体圏に立たれておられ絶対価値の存在としておられるお父様を正しく証しする自分にならなければならない、と悟れされたのです -間違っているなら間違っているー正しいとしたら、正しいと言える自分にならなければならないと悟らされました。
いま霊界に逝ったら、霊界に居られる真のお父様からこう言われそうです 。「病の中から生かすようにしたのに使命も果たさず、ここ霊界に何故来た!正しい事もはっきり言わず、物事を曖昧にして!」・・・ と、叱られそうです。
「先生は君を先生近くに置いて見せ、聞かせ、触れさせ教育したのに何故、正しことを正しと言わず、間違ったことは間違ってい る、とはっきり 何故言わなかった!」と。
そして私は麗水でも、いろいろな状況の中にある、お父様の姿を見ました。お父様が私達の前でよく声を殺して叫んでおられたのです。お父様がおられて、修練生がいる前で、「オンマがこの席にいない。オンマがこの椅子にいない! 」と、どうすることもできない内面を私達の前で見せているのです。たとえ100 回先生に反対し邪魔してもても101 回目には先生が勝つことになっている!・・・と言われるそんなお父様の心をどのようにして慰めて解放して差し上げたらいいのかということを、私は本当に考えました。
私は長い年月の間、お父様の近くにいて侍る事が許されました。今、教会内において、いろいろな問題がありますね。お父様というお方は ー私はお父様がメシヤだということを本当に信じています。先ほども申し上げましたね。「多くの人はみ旨がわからない。先生がわからない。メシヤである先生がわからない」と言っておられるお父様を・・・ 。
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