1965年2月10日午前1時40分~3時40分 仙台教会
完全な自己否定-だから宗教といえば、あらゆるものを否定する、否定の基準から始めたのである。なぜかというと、如何なるこの世界が一つの世界になって、一人一人が願うあらゆる条件をかなえた立場に立ったとしても、それをそのまま神が願うところの真理、我々の本心、あるいは真の心が願うところの真理が招き入れない危険がある。それを神がもしも知っておるならば、我々の本心がそれを感知する立場に立っておるならば、これは当然なこととして打ち砕かなきゃならない、否定しなければならない、という立場に立たざるを得ない。だから宗教は否定から出発する。どこまで否定か、ある見解を残して否定か、完全なる否定だ。その否定圏には自分の生命まで入っている。何故かというと本来神が願う実在ではないから、もっと進んで自分の愛情まで否定してきている。そうした自分の親、兄弟、ここまでですね。だから我々の生活のすべてを否定しなければならない辛い課題がある。何故かというと堕落の報酬である。そういう結論になる。
何故そういうふうにするか。何故そうしなければならないかというと、そこから因縁が生じてくる。だから神と会わなければならない。神の御言に接しなければならない。神の実体に一体とならなければならない。神の心情に我々は接しなければならない。心情を得なければならないというのが人間の最高の目的である。その価値性の基準の目的を得んがためには、これを切らなければならないという結論になる。そこから神と我々の因縁が始まっておるというんですね。宗教はそこから。そうするというと、それは人間にとりまして、容易な問題ではないということであります。では神はこの難しいことをそのまま残して摂理すべきか。それでは、あらゆる問題に引っかかってくる。みんな神と会わなければならない。神と会う最初の出発点として勝利しなければならない。今までのあらゆるものを否定し、この地球上に住んでいる人間が願うその希望圏から離れた新しい圏に我々は突如として現われたその存在を認め、そこから新しい希望、新しい生活ぶり、新しい信仰観、人生観を持って進まなければならないというふうになるんですね。
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