父の祈祷1959年7月19日
今日、私たちは、歴史上に来て逝かれたイエス様を知り、信じていますが、その当時イスラエル民族に追い回された悲惨なるイエス様、この村で追われればあの村へ、この都で追われればあの都へと彷徨したイエス様の心情を知って、信じる者はいませんでした。天の心情を身代わりして現れたイエス様の姿を知る者は、歴史上で見いだすことができませんでした。
メシヤを待ち望んだイスラエル民族が、メシヤを迎える望みを抱き、数千年間耐えながら闘ってきて、メシヤはいつこられるのかと言いながら待ち望んできましたが、いざその望みの的が現れた時には、自分たちの事情と自分たちの置かれた環境に偏ったあまり、天の心情を知らないまま深い眠りに陥っていたことを、私たちは思い起こさずにはおれません。このように嘆かわしい歴史があったことを思い起こし、きょう私たちに、お父様の心の中に染み渡っている恨みを解いてさしあげるべき責任があるとするなら、来られたイエス様を見間違えたイスラエルの罪状を、私たちが身代わりして担当し、解いてさしあげられるようにしてください。イエスを悲しませたイスラエルの失敗に責任を持ち、身代わりして悔い改めることのできる私たちとなるよう許諾してください。
イエス様は悲しい三十余年の生涯をお送りになられました。その上に自分のすべてのものを捧げた三年公生涯がありましたが、誰が彼の心情を知り、誰が彼の事情を知っていたでしょうか?一人もいませんでした。甚だしくは、喜怒哀楽を共にし、悲しい時、共に悲しみ、寂しい時、共に寂しがり、師と侍っていた弟子たちも知りませんでした。師が死の道を行くことを案じ、懇切なる心情で天をつかみ訴えるべき弟子たちが、かえってイエス様が誰であるかと言って問い返す立場にあったので、三年の公事が無駄であったことを感じられたイエス様の心情、悲しみがあるとするならこれ以上の悲しみがどこにあり、悔しいことがあるとするならこれ以上悔しいことがどこにあるでしょうか?権能をお使いになったイエス様をあがめ侍ることのできるクリスチャンはいますが、踏まれ押しつけられたイエス様のその足跡をつかんで生きようとするクリスチャンはいません。お父様、かわいそうなイエス様の心情をつかんで立ち上がることができる息子・娘たちが、この万民の中にたくさん現れることを私たちは血涙(けつるい)で訴えないわけにはいきません。
生きておられ、歴史の背後を操られるお父様!私たちに、ほのかに行く所を教えてくださることを知るものです。お父様、過去のイエス様を慕う私たちとならないようにしてくださり、時代的なイエス様を証すためにあえぐことのできる私たちとなるよう、許諾してくださいますことを懇切にお願い申し上げます。
今、私たち、お父様の前に行かなければならなかったイエス様の心情に同情し、その心情の前に頭を下げられるようにしてくださり、イエス様が喜ばれ、願われた何かがあるとするなら、それを成し遂げてさしあげることのできる私たちとなるよう許諾してください。2000年前、人類の生命問題を解決しなければならなかったイエス様の心情に徹することができ、彼の心情と関係を結べる息子・娘となるよう、お導きくださいますことを懇切にお願い申し上げながら、主のみ名によってお祈り申し上げました。 アーメン。
教会の「声明文」と「第三弾」に対する反論と提案(その3)
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