真を探してさまよう人類 1958年12月21日
『文鮮明先生み言選集第五巻』
堕落によって生じた悲しみと苦痛を解怨しなければならない終わりの日に処した私たちは、これから神様の心情を身代わりしなければなりません。
6000年間悲しんでこられた神様に代わって悲しむことができなければなりません。6000年間苦痛を受けたその神様に代わって苦痛を受けなければならないのです。その神様に代わって打たれなければならない立場に置かれている人間なのです。ところがこのようなことを知らない人間なので、天は「審判」という名詞を掲げておいて、人間に対して涙を流しながら摂理していらっしゃるというのです。
では、審判を避けることができる道とはどのような道でしょうか。私の体をつかんで泣くのではなく、自分自身の苦痛のゆえに泣くのでもありません。私を救うために私の苦痛よりもっと大きい苦痛をもってこられた、神様の苦痛を知らなければならないのです。私の悲しみよりもっと大きい神様の悲しみがあり、私の体のつらさよりももっと大きい神様のつらさがあったということを知らなければなりません。
そうして私の一切を否定して、背後で歴史を動かしてこられた神様の心情にしみている、すべての苦痛を解怨してあげるのです。そのようなことに耐えることができる自分を探して、さまよわなければならない運命の中に処しているのが、今日の人類なのです。
このように見るとき、堕落した人間が自分を打ち破っていくには何をしなければならないでしょうか。私の心と体を動かすことができ、私が持っている物質を動かすことができるものとは何ですか。それは完全な愛の心情です。したがって、皆さんは霊が心をつかんで愛するのを感じることができる人、心が体をつかんで愛するのを感じることができる人、体が万物をつかんで愛するのを感じることができる人にならなければならないのです。正にそういう人が、
私たち人間が探さなければならない目的地であり、終着点であるのです。
人間の堕落によって神様の愛をなくしました。神様の愛をなくしたことが、人間が嘆息するようになった原因なのです。そうして人類歴史も、神様の愛をなくした中で嘆息の歴史路程をたどってきたというのです。
神様の愛は、実体地上天国を建設できる永遠な天国理念の踏み台です。ところが人間は堕落によって、永遠な世界の理念的な基盤である神様の愛をなくしました。この神様の愛をなくしたがゆえに、神様は人間から離れました。そうして地上天国を成し遂げることができる神様の愛は、ますます遠くなってきているのです。