「人間に対する神の希望」 御旨と世界 P.267
人間の堕落以来、神の仕事は、本然の善を復帰することでありました。神は悪なる世界を滅ぼし、善なる世界を再創造することを願っておられるのです。我々は健康を失ってしまったのです。我々は病人になってしまったのです。それゆえに神の救いは、もう一たび人間を健康な状態へと復帰することなのであります。
神は、善なる種を蒔きました。しかし、その実を刈り取る前にサタンが悪なる種をもって侵入し、悪なる実を刈り取ったのです。このために、神はもう一度善なる種を蒔かなければならないのです。その仕事のために神は、何らかの、ある道具を必要とするのです。世界の宗教は、そのような神の道具としての役目を果たしてきたのです。歴史を通して、善なる宗教は、犠牲的愛と奉仕を中心とした神の生き方を教えてきました。それゆえに、キリスト教は、その犠牲的愛と奉仕とを最高の形において教えているために、最も進んだ宗教と考えられてきました。
イエスは、救い主として来られましたが、彼の教えは、「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」(マタイ二〇・二八)と説いているのです。イエスは世界でもっとも大きな愛は、敵のために生命を捨てることであると教えました。聖書の教えは、この世の一般のルールには反しています。それはこの自己中心的世界の方向とは全く逆なのです。聖書は完全に与えることと、全き犠牲とを説いています。「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」
(マタイ一〇・三九)。この悪なる人間社会においては、このような生き方をまじめに考えることすら、ばかげたことに思われます。しかし、一たび神の原理を知ったならば、実際これよりも偉大な知恵はないということを発見するようになるでしょう。
イエス・キリストの教えは、正にこの根本的な真理の真髄を突いていました。人は、与えれば与えるほど、受けるようになるのです。神は、完全に与えるものに対しては、完全な愛をもって報われ、完全な犠牲に対しては、完全な生命をもって報われるのです。与えることは、神の愛が入ってくる空間を生み出すことなのです。あなたが与えることによって空間ができ、それが大きくなればなるほど、ますます急速に、あなたは神の愛の流れによって満たされるようになるでしょう。
良くしてもらうためには、まず、あなたが、他の人に対して良くしてあげなければなりません。あなたは、蒔いたごとく、刈り取るのです。悪を蒔けば悪を刈り取り、善を蒔けば善を刈り取るのです。あなたの関心はどのように与えるか、どのように良く与えるかということに向けられなければなりません。それは神が取り計らってくれるからです。
善なる人と悪なる人の例を挙げてみましょう。ここに十人の友人をもっている一人の人がいるとします。来る日も来る日も、この人は、その十人の友人たちに自分を忘れて仕えています。人々は、その人を愛さずにはいられません。そのようにして、彼はその十人の人々にとって最良の友となり得るのです。そうして、彼の影響は、その十人の人々の親戚や友人へとさらに広がっていくでありましょう。自分を超えて与え、仕えることによって、この人は栄えるようになるのです。彼は、神の原理に基づいて生活しているので、彼は調和と統一の中心となるのです。自分を超えた無私の精神は繁栄をもたらすのです。このような人が善なる人であります。
しかし、反対に、例えば、この人が、友人に「十人の者たちよ、すべてのものを私のところにもってきなさい。あなた方は、私に仕えるためにここにいるのです」と言ったとしましょう。彼がこのようなことを彼の友人に向かって三度も言わないうちに、誰もがみな、彼との関係を断ち切るようになるでしょう。彼らは、彼とは一切の関係をもちたがらなくなるのです。そして、やがて彼はたった一人取り残されるでありましょう。こういうことは我々の実社会においてもよく見られることではありませんか。
これは普遍的な真理なのであります。自己中心的な主義、自己中心的な哲学、自己中心的な生き方は、自己崩壊という悲劇的な道にあなたを真っ逆さまに放り出してしまうのです。しかし、もしあなたの人生を他への奉仕に生きるならば、あなたは栄えるでありましょう。そのような生き方は、あなたを滅亡に導くように一見、見えるかもしれませんが、決してそうではないのです。それが必ずしもあなたに繁栄をもたらさない、ただ一つの理由は、あなたが最後の最後まで、すべてを与えるということをしないということです。途中で、突然あなたは、懐疑的になるのです。そして、あなたは自分で自分の慈悲の心を変えて、完全に与えるという神の法則から外れてしまい、そのため、善なる結果は決して実現されなくなってしまうのです。完全に与えることは、繁栄への道であります。なぜなら、それが神のやり方であるからです。