今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

天国と堕落人間(2月4日)

Feb.4.2019 今日の訓読のみ言

天国と堕落人間

「天は心情によって侍る者の場」

文鮮明先生み言選集 No8 1960年2月14日(日)  

  天国という所は心情を通じてでなければ行けないことを、皆さんは知っています。天国は全体を主管する本然の国であり、本性の国であるというのです。その国はある事情をもってしては、所有することができないのです。深く染みる心情の因縁をもってこそ、所有することができる国なのです。ですからキリスト教は究極的に、事情を通した教会ではなく、心情を通した教会なのです。事情の因縁を越えて、心情をうたうことのできる基盤を築く時、地に対して摂理される天の目的があったのです。
  

 堕落が何であるか。神の事情を言わなかったことではなく、心情を言わなかったことが堕落なのです。堕落した人間を捜し求める神は、失った息子娘を求める心情を持っておられますが、その心情を分かちあう人間がいませんので、その人間を捜し立てる役事をされますが、これが救援歴史であり、その人々を捜し立てるために送られた方が救い主であることを、皆さんはよくよく知らなければなりません。
  

 我々は天国を所望する前に、神の心情を願わなければならず、また神の心情を願う前にわが一身はどのように生きるべきかを、考えなければなりません。皆さん自身はまず、侍る心情を持たなければなりません。高く尊いものに対しては、頭を下げて慕うことが人間の本性なのです。人間は堕落しているとはいえ、高く尊い天の心情に対して、侍りたいということが、我々の造られた人間としての本然の心情なのです。ですから心情が通じる侍る生活をしてみない者は、天国とは何らの関係もないということを、皆さんはよくよく知らねばなりません
  

 ところで侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経たのちに、侍る生活が必要になります。侍るための準備の過程を経て、侍る生活をなしたのちに行くところが天国なのです。心情により侍った者が行くところが天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を賛揚(さんよう)して、高く現れる世界が天国なのです。これを皆さんはよくよく知らねばなりません。我々はこのような目的の世界に向かって行く過程を経なければならない運命があるのです。
  

 堕落の血統を受けて生まれてのち、今日まで全世界の人類が心情を尽くして天に侍る一日があったか。ないのです。堕落しなかった我々の先祖、アダムとエバは創造理念を通じて誇り、心情の因縁を立てて神様に侍ってみる時間がなかったのです。

 

 神の恨が何であるか。心情を中心として、神様に侍らなければならない人間が、侍ることのない立場に落ちてしまったことであり、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られなかったことです。信じる者がいないことが恨ではありません。心情を通じて神に侍り、心情を通じて神に対する人間がいないことが、天と地の恨であることを皆さんはよくよく知らねばなりません。
  

 堕落した人間は捜し求めているのです。何を捜しているのでしょう? 天を捜し求めているのです。しかしながら心に染みる喜びを感じ、そこが永遠に自分が住む天であり、わが心情が永遠にとどまることのできる地であり、自分の生活舞台だと誇ることのできる天と地を求めた人間が、歴史路程においていましたか? 一人もいないのです。



子羊の婚姻を通して見る神と人類の所望
  

 我々が信じている救世主イエスも、この地上に来られ、心情を通じることのできる環境で、神様に侍ってはみなかったのです。全ての万物は、神の息子娘の心情の喜びを感じて和動する場で、主人と共に心情の因縁を持つために造られたのです。しかし人間の堕落により、そんな場で因縁を結べなかったのです。このような地上に心情を通じることにできる環境を造るために来られたメシヤも、心情の基台を得て、天に侍る生活をすることなく行かれたという事実を、我々は知らねばなりません。
  

 イエスが言われるに、ご自身は新郎であり、我々に対しては新婦であるとされました。また、神様は父であり、我々は子女であるとされました。心情の因縁の基台とは何であるか。父子の因縁であり、夫婦の因縁であります。またこれを基盤として結ばれた兄弟の因縁、同胞の因縁であります。
  

 それでは天地万物を造られた神様のまえに、世界人類はどんな存在を立てなければならないのでしょうか。復帰摂理をされてこられた神は、この地上にどんな人間を立てなければならないのでしょうか。心情の因縁を得て横的には世界に通じ、縦的には神に通じ、横的には現実に通じ、縦的には過去と未来に通じる心情の基台を成して、その中において真の息子・娘、真の新郎・新婦を立てなければなりません。このようにして天は、心情が連結された場において、神様に侍る息子娘、一つの家庭を慕っておられることを我々は知らねばなりません。
  

 イエスは終わりの日が、喜びの日であると同時に悲しみの日となるであろうと予告されました。心情が通じる人間には、喜びの贈り物を受ける日であり、心情が通じない人間には、悲しみの贈り物を受けなければならない日であるというのです。
  

 イエスは来られるに、新郎として来ようとしました。子羊の婚姻は、新郎・新婦が相逢うことを言うのです。神の摂理は、この一日のために始まったのです。摂理のみ旨に従う信徒たちもまた、この一日を願って闘ってきたのです。摂理の目的、摂理のみ旨に従い、信仰生活をしてきたただ一つの目的は、何であるか。新郎・新婦の因縁が結ばれるその一時、天と人間、そして人間と万物の間に切れていた因縁が、神の心情に対することのできる息子娘を中心として、再び結ばれるこの瞬間を迎えるためであることを我々は知らねばなりません。
   

 我々は侍ることを苦待してきました。誰に侍ることを願うのか。来られる主に侍り、さらにその主が侍るアボジに侍って生きることを願うのです。これが我々人類の所望なのです。救援ということも、この基準に通じなかったらダメなのです。

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