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今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

新郎に侍るための準備と礼物(2月5日)

Feb.5.2019 今日の訓読のみ言

新郎に侍るための準備と礼物

 

「天は心情によって侍る者の場」

文鮮明先生み言選集 No8  1960年2月14日(日)

   

 これまでの歴史は、主様に侍るその一日のための、準備をする歴史なのです。来られる主様を慕うことも、侍ることのできる内容を知るための準備であり、慕わしい天のみ旨を知って、そのお方と共に生活できるその日のための準備であることを知らねばなりません。

  

 キリスト教は今まで、2千年の間、準備して来ました。新婦として、侍る生活をするための準備をしてきたのです。それでは準備をするといって、どんな準備をしてきたのでしょう。み言の準備でもなく、信仰の準備でもなく、生活の準備でもないのです。心情を通じることのできる準備をしなければならないのです。

  

 新婦を慕って2千年の間、求めて来た新郎の心情を、皆さんは知らねばなりません。私一人を新婦として迎えるための天の慕う心、私一人を立て、新婦としてつくるための天の苦労と滲む心がどれほど大きいか、皆さん、感じてみましたか? 外観は見すぼらしく微々たる存在であっても、天は思慕し、慕わしいのです。うわべではなく真心から、形式ではなく真情から、ある方式ではなく真なる心情をもって、我々を慕ってこられたのです。ですから今日まで、摂理歴史路程は慕わしい心情によって連結されてきたことを、我々は知らねばなりません。

  

 我々が新郎に侍るための準備をする前に、天は何千回、何万回、その準備をされたことを我々は知らねばなりません。我々が準備する前に、まず天が我々のために準備されたのです。今日、新郎を迎えようとする皆さんは、身に染みる心で準備する自身であるか、自ら反省しなければならないのです。慕わしい主様、心情に染みるほど慕わしい主様に侍ることのできる、その一日のために準備する我々の態度、今日のキリスト教信者たちの態度は、どのようでなければならないかということを、皆さんは考えてみなければならないのです。

  

 主様に出会いたいという心が強ければ強いほど、天に対する慕わしい染みるような心情が強ければ強いほど、皆さんは上を見やって来られる主に出会うことを願うよりも、後ろを振り返って、来られるために闘い、我々を準備させて来られた主の為に泣くことを知る人間にならなければなりません。私一人を捜し立てるために、苦労してあえぎ来られた6千年、サタンと闘われた6千年、傷もなく善なる天が、凶悪なるサタンの讒訴を受けてきた6千年、傷もなく善なるその体に、サタンの矢を受けてきた6千年、どの時代どの時期にも、天は悲しみに会わなかった日はなかったのです。このような悲しみの心情を抱き、抱いて来られても、天は何ほどでもない我々を、心情で和することのできる姿の勇士として立てるために捜し求め、慕い来られたことを皆さんは感じなければなりません。

  

 このような天のまえに出て行くために、皆さんが準備した礼物が何でしょうか? 6千年の間、摂理されて残ったキリスト教信者たちが準備した礼物が何ですか? 何を持ってきましたか? 天は苦待されて来ました。世のどんな値打ちのある金銀財宝や、真珠を欲しておられるのではなく、心情、心情、心情に染まり、全てのものを抱いて愛し、天と共に生活する人間を求めて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。

  

 こんな心情に染みて準備した自身になっているとするなら、皆さんの目と耳と口と体はどうでなけばならないのか。心情を通して見て、心情を通して聞き、心情を通して語り、心情を通して行動しなければならないのです。心情を通した因縁を得て生きなければならないのです。心情が通じる目をもって、主様と共に見て侍ることができるその一時、心情が通じる耳をもって、主様と共に楽しむことができるその一時、心情を通じて語り、心情を通じて行動して生きるその一時を、天は慕いつつ6千年の間、捜し求めて来られたのです。

  

 皆さんの目と、皆さんの耳と、皆さんの口と、皆さんの体が、天と心情の因縁を持っていますか? この目は見るに心情による因縁をもって万物を見なければならず、この耳は聞くに心情による因縁をもって叫ぶ声を聞かなければならず、この口は心情が通じる言葉を発しなければならず、この体は心情が通じるところの生活をしなければならないのですが、いまだ侍る場に入る前の準備過程にいる我々なのです。それゆえ皆さんが得ている心情的な準備は、どの程度かということを考えざるを得ないのです。

  

 天は願っておられます。心情が通じる一つのみ手に、万物が慰撫されることを願っておられるのです。心情が通じる子女によって、全ての息子娘が抱かれることを望んでおられるのです。心情が通じるところの新婦たちによって、神の主管が成されることを苦待されておられるのです。心情が通じる息子娘たちのまえに、この世界が主管されることを苦待されておられるのです。これを皆さんは考えてみましたか? 考えれば考えるほど、えらいことなのです。

  

 このような神の所願が、わが一身のみならず、世界と天宙まで連結されていることを考える時、私は主のものであり、アボジのものであることを否定できないのです。ですからわが心もアボジのものであり、わが心情もアボジのものであり、私の意識と直観と感覚器官一切までもアボジのものであり、自分が感じ意識する全体が心情を通じるところのアボジのものであるという観が、決定ずけられなければならないのです。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有できないことを、よくよく知らねばなりません。

  

 これらを考える時、皆さん、我々は恋い慕わなければなりません。我々は捜しまわらなければなりません。我々はこんな事実を知って、全力を尽くして天の所願を成すために訴えなければならないのです。死の道がどんなに恐ろしくとも、笑って越える強烈なる心情をもってゆくなら、信念をもって屈伏させる自体とならなければならないのです。

 

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