地上生活と霊界 下 P40
風が吹き、暴風雨が吹きつける恨があっても、自分が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。自分が間違うことはあっても、み旨は間違いない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と、夕の信仰が違う信仰姿勢をもっていながら、天国を恋しがるなら、それはあまりにも愚かなことです。
天国に接近することができる道とは、どんな道でしょうか。自分を考える立場では、天国に行くことができる道は生じません。自分が天国と距離が遠いということを発見するようになれば、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を攻撃する所でのみ、天国、あるいは間接的な天国でも開放され得る道が開かれます。しかし、自分を擁護する立場で、相対を自分に適用させようとする人、自分自らを主体的立場に置いて相対を引っ張っていこうという人は、天国とは関係を結べません。
明らかなことは、天国は自分から成されるのです。いくら相対的天国が完備されたとしても、その天国が呼ぶときに、答えることができる自分自身になれないでいるなら、その天国とは関係がなくなります。
天国とはどのような所でしょうか。サタンを屈服した所です。自身を屈服した所ではありません。自体だけを屈服した所ではありません。堕落した世界圏、習慣的な環境圏、あるいは常習化した所には、天国は臨むことができません。この常習化された環境を、サタンが凝(こ)り固まって支配しているために、サタンがここに寓居しているために、このサタンの環境を克服してしまってこそ、天国が来るのです。天国は、サタン世界の内容と相反する所で成されます。もし、そのようでなかったら、天国に成り得ません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかすためのトリックにしかならないのです。
天国という概念は、サタンを屈服した場所で、サタンが相対することができる一切の要因を否定した場所で、否定するだけでなく清算した場所で、成立することができます。サタンの否定的与件が残っている、歴史的な遺物であるとか、生活のすべての内容を否定して清算した基盤で、天国が肯定され得るのであって、それを残しては、天国の内容を提示することはできないのです。天国は、このように高貴なものです。
絶対的基準の前に一致し得るものが天国だといいますが、我々が描く天国の概念は、あまりにも混み入っています。あまりにも邪(よこしま)となった立場で、天国を待ち望んでいます。このような生活環境で、絶対的な信仰基準をもって克服するところから天国が始まるのは間違いありませんが、それだけでは天国は決定され得ません。その基盤で、数千年間神様を苦労させ、数多くの人類をもてあそんだサタンを克服してこそ、天国が繰り広げられるのです。
そのまま素直に信じてだけ行く立場では天国が成され得ないということは、言うまでもありません。信じる心だけもっては、絶対に天国が成され得ません。その過程でサタンがいつも戦いを提示するために、戦いの路程を克服してこそ、天国が成されるのです。ここには主権がなければならないし、数多くの民がいなければならないのです。数多くの家庭が、国家なら国家自体を成して、一つの目的のために克服していかなければなりません。
神様の立場から互いに相いれないことなく、主体と共に、どんな時、どんな環境、どんな所でも、こたえて和動することができなければならないのです。生命を捧げる覚悟をして信じる立場では、心に臨在する天国を感じるかもしれませんが、実体的な天国は成されません。二千年の歴史を通して、数多くの殉教と受難の代価を払っても、現実の舞台で天国は成就され得ませんでした。天国は、そのように簡単に成されるものではありません。
聖書に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22・37)という句があります。「主」という言葉は、永生について忘れられない、絶対的な内容を備えた立場で認識することができる言葉です。主なる神を信じるところから、天国が到来するのではなく、主なる神を愛するところから、天国が来るのです。父のみ旨は愛するところから成されます。信じるところからではなく、愛するところから成されます。
今まで我々の信仰がどれほどいたらず、原則に到達するのに、どれほど遠い距離にいたかということを悟るべきです。ひょっとして、ここに初めて来た人がいるかもしれませんが、個人を中心としては、慰められ得る立場に行くことができるかもしれませんが、まともに天国は成されません。個人の心に天国が成されて、個人を中心として神様が喜ばれるといって、天国に成るでしょうか。それが、個人の天国にはなるかもしれませんが、全体の天国にはなれません。
神様が願うことは、個人の天国ではありません。個人が成立させた天国を眺めて喜ばれるのではありません。一人が喜ぶのを見て、天国がすっかりできたと言えるでしょうか。神様は、喜ぶことができる一人、イエス・キリストをこの地に送ったのは、彼を中心に万国を横的につなげて、全体の天国を模索しようとされたのです。それゆえ、メシヤをこの地に送り、犠牲にしたのです。