今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

宇宙的法のもとの公的目的(6月29日)

June.29.2016 今日の訓読のみ言

宇宙的法のもとの公的目的

「私たち自身を知ろう」 御旨と世界 P.767

1979930

 

 あなた方は毎朝、朝食を食べるでしょう。あなた方の食事を構成する動物や植物は、どこから生まれるのでしょうか。食物を食べるために、あなた方はいろいろな植物を無慈悲に切り倒し、それからそれを歯でかみ砕き、それらを飲み込まなくてはなりません。そうしてもサラダの中にある野菜は、あなた方に反抗しません。なぜならば、それらは宇宙的な法を知っており、自分たちはより大きな目的のために存在している、と思っているからです。それらの食物がそういう姿勢をもっているので、人間が公的な目的に向かって奉仕するために、それらの食物を食べたとしても、彼らは感謝するわけです。ここでは目的が調和しています。

 皿の上の食物は、人間の生きている目的に対して、ある感謝をもっています。そこにのみ、人間と食物との調和が成り立つことができるわけです。もしそうでなければ、食物は食べられるたびに人間を嫌い、人間の笑い声を聞いても憤りを示すでしょう。重要なことは、食物は人間が公的な目的のために生きていることを知った時に、初めてあなた方を受け入れるのだということです。食物は、自分を食べたいと思っている貪欲な人間の笑いに対しては、憤りを示します。

 もし、人が公的な目的のために生きていないならば、食物は時々、それを食べた人のおなかの中で人間に対してデモを行います。すると、その人は病気になったり、場合によっては死ぬこともあります。宇宙的な法のもとでは、善は栄光、悪は滅びることになっています。今、あなた方は明確に、善の方向が奉仕と犠牲を伴っていることが分かりましたが、今までの歴史においては、その定義はあいまいで焦点がぼけていました。

 この定義が正しいか間違っているかを調べてみましょう。この世界のあらゆるものは、善悪二種類のうちの一つに属しており、あなた方の目から流れ落ちる涙一つでさえも、善か悪のいずれかに分けられます。耳や目も、二つの働き方があるのです。もし、目が世界を見渡し、困っている人がいれば行って助けてやりたいと思っているのであれば、その目は善の働きをしています。もし目が、その人を利用するために、人の弱点を見つけようとしているのであれば、それは悪の働きをしているわけです。

 アメリカにはあらゆる種類の音楽がありますが、それは誰のために演奏されていますか。ディスコやロック・ミュージックは善であるとか悪であるとかは言えません。それらがどんな目的のために役立っているかが、考慮すべき核心部分でなければなりません。もし、それらが公的な目的のために役立っているならば善です。もし、そうした音楽やダンスが、個人の肉体的な喜びや、人からお金を得ることだけのために用いられているならば、それらは悪の目的のために役立っていることになります。ところで、ディスコ・ミュージックが今日、私利私欲を忘れて、公的な目的のために演奏されているという気配が見られますか。そういうわけで私は、ディスコに行くことには賛成しないのです。もし、ダンスをしたり、そうした音楽を聞くことが、人々を暗闇から光に引き上げるのに役立つならば、一年間の三六五日、行き続けなさい。それだけの確信があなた方にありますか。これは私の考えにすぎず普遍的でないから、私がいなくなれば、それはもう適用されなくなる、とあなた方が思うのは正しいでしょうか。

 この宇宙的な法が、いかに過去、現在、未来を通じて不変のものであるかを示す、二つの素晴らしい実例があります。イエス・キリストは地上で最も惨めな生活を送りましたが、彼は十字架上で自分の敵を許すことができました。彼が死ぬ時、彼はこの世的な意味では敗北者のように見えました。しかし、彼の思想は過去2000年の間に、ほぼ世界を征服し、歴史は彼の誕生の年から数えられています。一方、これに対して、武力で世界を征服したと思ったヒットラーやナポレオンは、一時的には成功者のように見えたかもしれませんが、彼らの業績は今も残っているでしょうか。残っていません。それは、彼らも宇宙的な憲法の主管のもとにおかれており、彼らの活動は受け入れられないものだからです。

 歴史上の聖人たちはこの原理を生き、善なる生き方を実践した人々です。聖人とは、神と同時に人類に仕えて生きた人々であり、宇宙的な基準で生きた人々なのです。人々は、聖人と親戚であるとか、同じ国の出身者であるとか言って、聖人と何らかの因縁をもっていることを誇りとします。どうしてそのように誇りとしたいのでしょうか。なぜならば、それは、聖人が宇宙の最も根本的な原理を生きた模範であるからです。


 渡米修練会 ① (編集なし) 1:38


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