生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
復帰路程における決意の基準
「心情の境」1967年6月12日 忠孝の源 初版 P155
み意に立って、天の使命をうけて、もしも打たれて手がかたわになれば、これは幸福の象徴だ。自分の体に忘れ得ざる傷を残すのは、永遠の光の世界におきましては、光のもとである。讃美のもとである。先生はそういう事を考えている。だから、或いは牢屋に引き込まれて、打たれて、血をはく立場におきましでも、これをやり過ごしたら歴史を失しなってしまう。善なる先祖達の功績がとんでしまう。民族的基盤がくずれてしまう。だからそういう緊張した立場に立っても、その環境はどうでもいい。それが問題じゃない。自分自身に対して緊張せざるを得ない。そして、神の法に徹していこう。そういう信念でもって、歴史上の人物以上の立場をもってゆくならば、その後は勝利が決定する。死ぬところがあったらとび出して行ってそこをたどって行っても、その道が平和の道である。
だから復帰路程を完全に越える過程におきましては、7回以上死を決する、そういう過程を通過しなければならない。どうせ神のみ意がわかった、どうせこの道を行かなければならない。必須の使命として行かなければならないんだったら、真心こめ、忠誠なる心をもって、重大なる問題に、世界的な問題に身を投げて爆発する。それが堕落した人間としてはすばらしい立場である。先生はそう思うんです。もしも神の御前においてそういう最後を遂げたなら、その人はちゃあんと行くところは決まっている。
この統一教会の誰が第一代の殉教者になるか。我々は世界復帰のために世界的戦いをしなければならない。善の戦いを展開しなげればならない。その過程におきましては、ある時には、攻撃せられて、思わざる死の立場に立つ人もいるでしょう。その人が第一代の殉教者になるわけですね。
ステパノは殉教史を神の側から見れば、第一代の殉教者になるわけですね。ステパノは知恵の人間じゃないんです。冒険性のある、ちょっと足らない、しかし生命をかげる時には、という気質が殉教者としての要素になったわけですね。それでもってキリスト教の第一代の殉教者になった。殉教史を神の側から見れば、第一代の殉教者なるステパノは使徒達よりも高い位置になる。
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