生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
愛の背後は犠牲
御旨と世界P202
だから、本当の親子、本当の夫婦、本当の兄弟関係が成り立つには、犠牲なる愛の目的の立場に立たなければ、「本当」という名前が成立できない、という結論になる。
もしも子供から考えた場合、自分の親が本当に自分を愛するというのは、本当に犠牲になって愛している立場をいう。犠牲になった親は悲しい立場である。しかし、子供がそれを完全に理解して、それに自分の愛をプラスさせて親に返してやれば、親は犠牲になったより以上、喜ぶというんだね。だから本当の夫婦というものは、共に犠牲になって、相対者と共に行くような立場に立てば、永続的に犠牲の力に加わって愛というものがもとがえされる。だから夫婦というものはそれ以上の苦しみで結ばれたら永遠に一つになれる。
本当の友達というのは、自分のためにすべて犠牲になるものである。結局、愛というものが位置をとって立つには、本当に犠牲になり授けてやる立場に立って成立するものである。だから愛の背後には犠牲が伴う。
今まで、神は人間を本当に愛せなかった。堕落したのだから、完成されるまでの力の投入を、まだ神が完全にしていないから愛することができない。
愛というものを、本当に願う者があったならば、神と同じ立場に立って、神自体が愛の相対者を完全に完成するには完成するまですべてを投入する。子供が成長して結婚するまで、親は一切を投入する。すべてを犠牲にし、親に対する心情圏が分かるまで投入しなければならない。そして心情圏が分かり、親孝行する立場に立つようになれば、犠牲にしたすべてを忘れて、親は喜びを感じるようになる。それが愛の道である。
愛の目的を完成する道においては、原理原則から見た場合に、神の立場から考えた場合に、犠牲ということを我々も通らなければ、完成基準を満たすことは絶対不可能である。完成するまで力を投入し得なかった神の基準を、自分を通して理想の自分を再創造させていこうと、神を背負い、働きかけて、自分の完成をなしていくのが復帰の道である。
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