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今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

救援の公式と伝統(1月12日)

Jan.12.2018 今日の訓読のみ言

救援の公式と伝統

 

19761010日 ベルベディア

 

   堕落によって失ったものは、皆さんがよく知っているように救いの摂理は、復帰の摂理です。また復帰されるためには、堕落のない堕落以前の本来の姿に戻らなければならないということも、よく知っております。人間の堕落によって人間の本来の姿からはずれてしまう結果となったために、すべての堕落した人間は、創造本然の状態に戻らなければならなくなったのです。

 

 では、堕落によって何を失ったのでしょうか。第一に人間は、信仰を失ったのです。われわれは、神のみことばから離れてしまったために、みことばと一体化できなくなってしまったのです。すなわち神のみことばを失ってしまったのです。それ故われわれは、御言の主体から離れてしまい、主体と対象との間に一体化がなくなってしまったのです

 

 アダムとエバは、天宙の主人公となるべきはずなのに、その位置を放棄してしまい、サタンが天宙の主人公の位置を奪ってしまったのです。神の創造の本来の願いは、天使界を含めた万物すべてに対して、主管性を発揮することでありました。しかし、人間の堕落によってサタンが支配者となり、人間をも主管するようになってしまったのです

 

 人間は、神に対して真の愛を捧げるべきでした。そして神と一体化すべきでしたが、堕落によってサタンと愛の授受作用し一体化してしまったのです。故に堕落以後人間は、サタンと一体化し神の血統の代りに、サタンの血統となってしまったのです。

 

 人間がサタン天使長に主管されるという原理はありません。あるいは人間の主管がサタンに与えられるということはありません。そのようなことは、本来の創造原理にはないことです。人間が、神の言葉でなくしてサタンの言葉に従い、サタンと一体化しサタンの奴隷になるということは、神の本来の世界にはなかったことです。

 

 神の創造本然の世界では、人間が神の言葉に従順となり、神の言葉を受け神の心情と神の人格と一体化するということが原理でありました。人間が神の真理と愛と人格と一体化したら、サタンの言葉と愛と人格と一体化するということは、なかったはずです。したがって堕落人間にとっての希望は、神のみことばと人格と愛を復帰することです

 

 この世では多くの人々がお金とか知識とか権力を求めています。そしてそういうものが影響力があるものとなっております。しかし神の目から見れば、これらのものは取るに足にないものです。すべての堕落人間は、神のみことばと人格と愛の三つの要素を追求するように連命づけられております

 

 しかしこれらの三つの要素を確保するためには、人間は神を確保しなければなりません。そうすれば神の中にそれらのものを見い出すことができます。

 

 公的な人間とは、今日、歴史の交差点において、われわれは神がもっとも公的な御方であるということを知らなければなりません。

 では公的な人間とは、どのような人間でしょうか。公的な心を持った人間とは、どのような人間でしょうか。公的な心を持った人間は、主体の位置を占めております。では主体とは何か。それは、常に対象の為に存在するものであります。対象の為に奉仕し、益となるために自己を与えるのが主体です。主体の位置が定まらなければ、他の何ものも位置が定まりません。主体は(いかり)のようなものであります。それは、すべて周囲のものの位置を定めます。主体の位置が定まれば、所有の観念ができ、主人として現われるようになるのです。

 

 たとえば一つの王国を考えてみましょう。そこには王様がいます。王様は、主体の位置を決定し、それによって自動的に対象の位置を決定します。さらに国民の性格や風習や慣習が定まるのです。

 

 次に主体の役割は、何でしょうか。主体はつねに責任ある位置にありますので、主体はつねに責任を引き受けるのです。たとえばわが統一教会におきましても、教会の主体となるためには、その人は責任がなければなりません。教会のすべての責任を引き受けなければなりません。だから皆さんがたは、毎日いろんなことを行い苦労し経験しておりますが、すべての責任は、実際的にはレバレント・ムーンの責任になるのです。

 

 たとえ皆さんがたが、困難に出会ってもまたは、批判されるようなことをしても、いつも私が批難されることになるのです。

 

 それはなぜか。レバレント・ムーンが主体の位置にあるからであります。同じように宗教者の誰かが、何か悪いことをしたり無責任なことをしたら、結局は人から神様の責任とみなされることになるのです。それは神様がすべての宗教者の主体であるからです。

 

 


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