御言集 第一巻 137
神の戦法とは打っていく戦法ではない。まず自分が打たれて打ったものが持ってくる。すなわち、サタンの方は打って奪う。神の戦法は打たれて打った者がもってくる。そういう戦法である。
神は今、若者たちに請(こ)い、要求している。こういう複雑なるこの現世において我々を立たして、ある目的を果たそうとする、我々は行かなければならぬ立場である。そうすれば、君たち一個人として考えればこれ は非常な問題である。しかし、一個人の抱くその正義に訴える心、向義心に立つその心というものは、これ は歴史を動かしてきたし、その決心の基準において、そうしてその目的に対して、いかなる障害にぶち当ってもそれをおさえなければならないというその実践をもって勝利した場合には、世界はその人に従わなければならないのである。歴史はその人を崇拝しなければならないのである。ゆえにそういう歴史的な動きが現 代世界の動きであるから今までの神の戦法として、戦わせるには、生命をも投げ捨てて自分の一番尊いもの、自分に一つしかない最高のものを最先端に立たして戦わせる、これが神の戦法である。
だから今までの復帰路程において習った我々の先祖というものは、真なる神の愛される義人であった、その人はその時代の最先端に立って打たれたのである。それは大いなる使命を持てば持つ程、その環境的範囲が広い。打たれる対象は狭(せま)いけれども、打たれるものは世界的版図と、世界的理想を抱いているのである。 打つ者は一人を打ったのだけれど、そういう希望を抱いた者を打った以上は世界的問題を条件として審かれることになる。これが蕩減条件である。だからイエス様において、その当時のキリストは惨めなものである。ユダヤの国において、 これは反逆者であるとされ、追いに追おれて、行くところがなくなり、十字架につけられてしまった。しかし、打たれるときのその個人は個人であっても、天の父を背景とし、今までの歴史と 現世あるいは未来に生まれる数多くの人類のために、過去現在未来を抱いて打たれた。厳として打たれた。 四方八方から打たれた。
しかし、打つ者はある国家圏内に入るある現状圏内にあるのだけれども、打たれる 者は民族を超越し世界あるいは天宙復帰の最高の心情境界までそれを抱いて打たれた。ここにおいて聖なる 審判者、すなわちもし神がいれば歴史的判断を決めなければならない。だからその道は追いに追われでも勝利の結果を史上に残しておく。