生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
海釣りは精神的なもの
環太平洋摂理168
先生は釣りに行けば、どこでも考え事をたくさんします。釣りを長くした人は、釣り糸を10回垂らせば10回考え、100回垂らせば100回考えるのです。
ですから、10回垂らしながら百回考えるならば、先を越すことができるのです。
釣りは精神の健康のためのものです。座って釣りをする時は、自分の一生を回想して、本当にたくさんのことを考えるのです。そのような時間をもつことができるというのは驚くべきことです。自らの過去を分析して、未来の生活に対して設計できます。自分たちにとって最も重要な時間になるのです。威厳を備えて自分自身を静かに省みることができます。それが絶対に必要です。
船に乗って青い海で魚を釣るというのは、神様の復帰摂理、救援摂理と同じです。堕落した人間が魚だとすれば、それと同じです。良い餌を入れなければならず、そして丈夫な糸を結ばなければならず、釣り竿も良いものでなければならず、すべてのものをそろえて釣らなければならないのであって、糸も弱く、餌も悪く、釣り竿も悪く、釣る技術も悪ければ、釣ることはできないというのです。同じことです。世の中で暮らすことも、魚を釣ることとぴったり同じです。自分がこの世で成功しようとすれば、自分自身が釣り竿のような立場で釣りをし、良い糸を結び、良い餌で釣らなければなりません。ただそのままでは釣ることができません。相対的な条件が合って、そこに収獲が生まれるのであって、相対的条件を合わせなければ収獲をもたらすことはできないのです。
皆さんが先生と海に行けば、先生の釣り竿に魚がよく食いつくと思うでしょう? 釣りをする時は、すべて相対のように思います。完全な主体は完全な相対を成すのです。釣りをする時は「ここには必ず魚が食らいつかなければならない」と思うのです。原理がそうです。私が一度このように出せば、すぐにさっと相対的価値が生じるというのです。普通の人が魚に対するのとは違うというのです。
私が釣りをする時は「魚たちよ! 私がお前を釣るのは私のために釣るのではない。世界で飢えて死ぬあのかわいそうな人、神様が涙を流しながら食べさせたいと思う、その心情を身代わりして釣るのだ。私のためではなく、子孫と万民のために釣るのだから、お前たちは許さなければならない」と言うのです。それで、最初に釣ったものは食べずに放してあげるのです。祭物として放してあげるのです。愛を受ければ、その前に生命を捧げようとします。ですから、周囲で魚たちが調べてみて「先生の釣り餌にだけ、どんどん食いつけ!」といいます。それで、船に十二人が乗れば、三分の一は私が釣ります
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