生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
淋しい時期が来たとしても
「刺激について」1970年11月26日 水沢里にて
もし淋しい時期が来たとしても、力が出ないような基準があるとしても、そこで落胆したりしてはいけない。そういう期間があるからこそ、谷を越えることができるんだね。谷の境界線というものは、線自体は中間圏だよ。それが大きい谷だったら、谷の広さも広くなるんだよ。その谷の底を通り抜けるような、そういう期間があるんだよ。そこには神も干渉できない、サタンも干渉できない、自分一人ながらやっていかなければならない、そういう期間があるんだよ。暗礁地帯みたいな、そういう期間が。腹いっぱい力を出そうとしても出すことができない、神に自分は捨てられてしまったような思いがする。神がいるかいないか思いもつかないような時があるんだよ。
そういう時をいかにして乗り越えるか。過去、神によって祝福された恵みに対して、蜜に酔った時のような、その喜ばしい心持ち、それが必要だよ。過去の自分をこういうように守って下さった神は、愛する自分の親である。わしは間違いなく神の子供である。いかなる曲線をたどっても、結局は愛の目的の立場に神は我を立たせる。その問題は間違いない。こういうような過程を通過させるのも、我にもっと大きい何かを悟らせる、あるものがあるから、こういう期間を自分に下さるのであって、自分の行くべき道をふさぐために、神はこういう淋しい立場に立たしておくんじゃない。そういう立場に立てば立つ程、今まで神共に我を守り、励ましてくれた、そういう基準を中心として、間違いなく神は自分を愛しておるという、信仰でもって乗り越えなければならない。誰が何と言おうと、この期間は克服するんだね。誰も頼りにできない。自分ながらの存在を認められないような立場に落ち込んだとしても、絶対に落胆してはいけない。
そういう時に、過去において自分を神が守って下さった経験からみて、愛する自分の子供をこういう立場に立たせた神自体は、非常に苦悶しているに違いないというんだね。そうだろ、親は子供が苦悩の立場に陥った時、その子供を見て、あるいは知って、これはもう苦悩の立場に立たざるを得ないと同じ位置なんだ。まあ、そういう時になれば、なる程、神は我々をもっと愛したい心が内心には高まっている。しかし、立場がこうだから愛することができない。しかし、これさえ抜け出れば、必ず神の愛は自分にたどってくる。そういうふうにして信仰で乗り越える。そして乗り越えて行った場合には、必ず大きい恵みにつながるんだね。こういう体験を、あんた達は何回かすれば、いかに淋しい所でも、孤独な立場でも、絶対、み旨に対して疑ったり、行くべき道に対して思案したり、そういうことはあり得ないというんだね。そういうような過程があるんだよ。
もしも、そういう環境を自分一人で全部負いきれないという場合には、友達が必要だ。信仰の友達だね。あるいは信仰の刺激の指導者。それらの人から、間接的に刺激をうけて力を得るような立場をたどっていくんだね。そうするには霊能者が必要だ、食口の中で霊を通ずる人があれば、その家に二、三日行って、ずうっと共におれば、あんたはこういう立場に来ておりますよ、今からこう行けばこうなる、というように、みんな前もって言ってくれるんだよ。そうすれば、そういう言葉は間違いなくそうなる、そうなるんだよ。信じていく。これを克服すればいいことがある、というふうにして、刺激の兄弟の助けを受けてその場を乗り越えなければならない。
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