『文鮮明先生み言選集第十一巻』
侍りたいお父様 一九六一年二月十二日
今まで私たちは観念的に神様を呼んできました。宗教的な主体としてのみの神様を呼んできました。しかし、そうではありません。神様は生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。しかし、どんなにその理念の主体が広く、大きいとしても実質的にそれを生活感情で分析し、体験しなければなりません。もし、生活で体験するその理念の価値を、存在している何ものとも替えることができないと自慢することができる場に立った者がいるとするなら、彼は神様が探し求めている人に違いないはずです。
私たちが感謝すべきことがあるならば、それは神様を父と呼ぶことができ、父に侍ることができる因縁を結んでくださることです。これ以上価値あることはありません。神様は堕落した人間を収拾して最大の価値を賦与したいとされるのですが、それはこの人類に対して親しく息子とし、娘とするということです。こういう心情を抱き、訪ねてこられるということを皆さんは体験しなければなりません。言葉だけではなく、体験しなければならないのです。
私たちはこのように訪ねてこられる神様に、必ず侍るべき運命に置かれています。皆さんがいかなる指導者に仕えているとしても、その指導者は皆さんが永遠に仕える者ではありません。今日この地上にいかなる理念を主張する代表者がいるとしても、その代表者も永遠に仕える者ではありません。私たちが永遠に仕え、永遠に共に生きなければならない方とは誰でしょうか。それは正に永遠無窮に存在される神様です。皆さんはそういう立場に立たなければなりません。一から千万事に至るまで、神様に侍って生活できるところまで進まなければならないのです。
世の中では、ある主権者の息子、娘であると自慢しています。ある会社の社長の息子、娘であると自慢します。しかし、それは問題ではありません。それは、あとでなくなるのです。本当に自慢できるものがあるとするなら、それは善の理念を通して天地万物を造られた創造主である神様に対して、皆さんが父と呼ぶことができ、その創造主が皆さんに対して息子、娘と呼ぶことができるということです。それ以上の場がどこにありますか。
「神様は愛だ」と言われました。やはり神様は愛の神様です。なぜ愛の神様でしょうか。人間が求めている最高のことを人間の前に約束され、人間を導いてこられたからです。私たちは神様を言葉だけで「父」と呼んでいますが、その内容を知らずにいます。実はその内容を体得しなければなりません。私たちは今まで、天にいらっしゃる真の父、全宇宙を造られた創造主を「父」と呼んできました。しかし、その父を本物の父として侍ったかといえば、そうではなかったのです。名前で満足される神様ではないのです。実体の中心として父子の絆を慕われ、来られた神様であるということを私たちは知らなければなりません。救いは名前で得るのではありません。実体によって救いを得るのです。名前で因縁が結ばれるのではなく、実体と因縁が結ばれなければなりません。