御旨と世界 P.263
聖書の創世記は、創造というものを単純に、簡単に感じさせます。神の創造は神のみ言の魔力によって成就されたというような印象を与えるのです。神が、簡単に「世界あれ」と言われて急速に世界が出来上がり、また「人間あれ」と言われてすぐアダムとエバが生れた、というような印象であります。
しかし、今日では、この創造は決して簡単なものではなかったことが明らかにされてきています。神は御自身のすべてをその創造に投入されました。ほんの一オンスのエネルギーをもとっておくことはされませんでした。創造は、神の仕事の一切であり、御自身を与える努力の一切であったのです。神は、その対象の創造に御自身の心と魂のすべてを注がれた時、御自身を百パーセント投入されていたのです。このようにして初めて神は、第二の御自身、すなわち目に見える神を創造することができたのです。
それゆえに、創造ののち、神はもはや、単に御自身のために存在されるのではなく御自身の息子と娘、すなわちアダムとエバのために存在されるようになりました。神は愛するために存在し、与えるために存在されるのです。神は完全に利他的な存在であります。神はお一人で存在されることはできないのです。「愛」と「理想」は二者が互いに補足し合う関係にあるときにのみ、その意味をもつものであります。神は創造に着手され、失うことのできない投入をされました。神はそのすべての愛と、生命と、理想とを第二の自己に注入されるとき、ある意味において、利益を生み出さなければならなかったのです。神は、御自身のもてるすべて、百パーセントを投入するとき、その対象は、成熟して何倍も何十倍もの愛と生命と神の理想とを御自身に返してくるようになるということを知っておられました。神の対象となる人間は、神にとってすべてなのであります。対象のもつ生命は、神を引き付けるのです。神は、対象なる人間のところに行き、共に住みたいと願われるのです。
例えて考えてみましょう。一人の偉大な芸術家がいるとします。彼がもし、何の心情もなくでたらめに作品を造ったならば、彼は何一つとして、価値あるものを生み出すことはできないでしょう。その人生における最高の傑作を生み出すためには、芸術家は自分のすべての心と魂とをその作品の中に投入しなければなりません。それが、偉大な芸術作品を生み出す唯一の道なのです。もし、一人の芸術家がこのような取り組み方をするならば、彼の芸術は彼の人生そのものとなってくるのです。
神はあらゆる芸術家に勝る、最も偉大な芸術家であります。神がその傑作である人間を創造されたとき、神はその過程において、御自身の心を注がれ、魂を注がれました。また、すべての知恵とすべてのエネルギーとを注がれたのであります。神は、ただ、アダムとエバと、そしてすべての人類のために存在されることを願われたのです。神は、彼らを創造されたとき、ほんの一オンスのエネルギーをも残して、とっておくということはされませんでした。このようにして、人間は、神の命となったのです。
神は宇宙に一つのパターンを敷かれました。理想的生活においては、我々は、他者のために生きるのです。主体は対象のために存在し、対象は主体のために存在するのです。神の善の定義は、完全に与えること、完全に仕えること、絶対的利他主義であります。我々は我々の人生を他者のために生きるべく造られているのです。あなたは他の人のために生き、他の人はあなたのために生きるのです。神は、人間のために生き、人間は神のために生きるのです。夫は妻のために生き、妻は夫のために生きるのであります。これが善であります。そして、ここに初めて統一と、調和と、繁栄とが生まれてくるのであります。