今日の訓読のみ言友の会

生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。

父母の心(2月15日)

Feb.15.2019 今日の訓読のみ言

父母の心

至誠感天・家和万事成

 

 皆さんの姿を外的に見て、みすぼらしく見えたとしても、天の王国においては、貴公子として生まれた息子です。たとえ体が不自由だとしても、父母にとっては、その人が心情の起源になっているのです。その人が標準です。ある父母に十人の息子がいて、愛が百個あるとしましょう。「お前は大きいから五十個あげ、お前は小さいから二十個あげよう。その次は十個あげよう」、このようにして末の弟に一個だけあげたとすれば、その弟は喜ぶでしょうか。喜びません。父母の心は、息子が十人いても、すべて同じように貴く思うのです。(26―16419691025

 最高の物を買ってあげたくても、事情が許さなくて買うことができない父母のつらい心情を、息子、娘は分かりません。統一教会の人たちは、そのような心情が分かるでしょう? そして、父母は三級品を買うとき、「次に買うときは、もっと良い物を買ってあげよう」と誓います。そのような父母の心情圏に、私たちは背を向けることはできません。そのように生活する父母が真の父母であり、そのような犠牲的な夫婦の関係を結ぶ夫婦が真の夫婦であり、そのような兄弟が真の兄弟であり、そのような子女が真の子女だというのです。(235―301992824

 夫と妻が赤ん坊を生んだとき、その赤ん坊が自分よりも優れていることを願いますか、劣っていることを願いますか。父母になった人は誰でも、自分の子女が自分よりも優れていることを願うのが本性の要求だ、ということを否定できません。(78―105197556

 父母は、子女たちが自分のために生きてくれるよりも、もっと兄弟同士でために生きてくれることを願うのです。これが本当の父母の願いであることを私たちは知っています。ですから、真なる兄弟は、自分を中心として自分のために生きろというところにあるのではなく、自ら「ために生きよう」とする兄弟間に、真なる兄弟と愛の兄弟と幸福な兄弟と平和な兄弟が設定されるということを、私たちは否定できません。(77―2651975414


(
) 神様の心
父母は、大切にかわいがってきたその息子、娘を通して福を受けたいと思い、幸福を感じたいと思います。また、喜び、福を受けることができる基準があれば、その息子、娘に永遠に残してあげたいと思うのです。堕落した人間も、そのような希望の心をもって息子、娘を思います。夜も昼も、息子、娘が美しく育ち、万国から尊敬され、万世にわたって称賛されるその息子、娘が、傷つかないかと保護し、切ない心情で心配するのが父母の心です。堕落した父母の心も、そうだというのです。

 胸の中でお乳を飲ませて育てる母親の切なる心、子女がうんちをし、おしっこをして臭いがしても、愛でその環境を忘れられるのが父母の心です。堕落した父母が子女を思う心もそうだとすれば、ましてや愛の主体であられる神様が、本然の心情を通じてアダムとエバを愛したかったその心は、どれほど切なるものだったでしょうか。一度考えてみてください。

 皆さんが赤ん坊を抱いて育てるときに、寝床でも歌を歌ってあげ、独り言で話もしてあげ、すくすくと育つことを願うその心は、父母なら誰もがもっているでしょう。いくら愚かで不足な子女でも、その子女に足らないところがあれば、父母の心は、胸いっぱいに最高の苦痛を経るのであり、それが解決すれば、その苦痛に反比例して喜びが同伴するのです。堕落した父母の心もそうならば、神様の心はどうでしょうか。(20―209196869

 女性の皆さん、妊娠したときの心は、どうですか。自分の思いはありません。自分の思いどおりにはできないのです。赤ん坊が成長すれば成長した分だけ、そこに歩調を合わせなければなりません。それと同じように、天地を創造された神様も、息子、娘が成長すれば成長した分だけ、そこに歩調を合わせて成長していくのです。そうしてこそ、神様が成長していくというのです。自分の息子、娘が成長していくのではありません。神様の息子、娘が成長していくのです。それで、妊娠したときは、父母も成長しながら父母の資格を経て、すべての精誠を尽くすのです。

 そのときから父母は、精誠を投入しては忘れ、投入しては忘れます。息子、娘が二十歳になるまで、投入しては忘れる、そのような生活です。そのような伝統を残す夫婦がいるとすれば、どのようになりますか。愛の相対に対して自分よりも立派であることを願うので、千倍、万倍立派であることを願うというのです。それが父母の心です。それはどこから来たと思いますか。神様から来たのです。私たち人間に対して願う神様の心と、父母が子女に対して願う心は、同じだというのです。このように考えるとき、神様は、どれほど近い存在でしょうか。(232―143199273

 神様が最高の能力を発揮して、傑作品として造ったものとは何でしょうか。アダムとエバです。人間は、その創造の能力ももちたいという欲望をもつようになるのです。神様は、愛する息子、娘なので、これまでも与えようとされます。愛する息子、娘には、自分にないものまでも与えたいと思うのが父母の心だからです。神様も、天地万物を創造された創造の能力まで、愛する息子、娘に与えたいと思うでしょうか、与えたくないと思うでしょうか。間違いなく与えたいと思うのです。ですから、人間にも、アダムとエバを造ったのと同じ創造の能力を賦与されたのです。(56―1491972514

 昔、私が釜山に巡回に行ったときのことです。先生が来られるというので、若くて背の高い人たちがみな駆け寄ってきました。ところが、その後ろのほうに八十歳くらいのおばあさんがいたのです。八十歳になるおばあさんがついてきて、涙をぽろぽろ流し、「ああ、私も若い時に先生に出会えていれば、どんなに良かっただろうか」と嘆いているのを私は見たのです。食口たちは、その夜に、先生が自分たちに話をしてくれると思っていました。しかし、話をしてあげなかったのです。そのおばあさんと夜を明かして話をしました。それが神様の心です。皆さんの心も、そうでなければなりません。(81―32619751229

 何日か前、新聞に一家心中の事件が報道されましたが、そのようなことを他人事として考えないでください。赤ん坊を生んで育ててみた人たちは、より実感すると思いますが、愛する子女たちが、何日も飢えておなかがすき、「御飯をくれ」と言うとき、その父母の心はどうだったでしょうか。どうすることもできないので自ら命を断ったのでしょう。

 復帰の使命を担った自らが、そのようなつらい父母の立場に立ったなら、どうしますか。神様も、このような苦しい立場に立った時がどれほど多かったでしょうか。復帰の路程で、大勢の民たちが死の場に出ていくのを見ても、手を出すことができず、耐えていかなければならない、このような無念な立場に立った時がどれほど多かったでしょうか。(16―3151966731

 統一教会の文先生という人を、神様は愛していらっしゃいます。それは、私がよく知っています。しかし、私は、生涯を捧げて信じてきましたが、あるときは、神様に抗議したいと思うときが一度や二度ではありませんでした。私が死地に行くと、神様は「知らない」と言われます。「お前を知らない」と言われるのです。しかし、分かってみると、「知らない」と言う父母の心はどれほど苦しいでしょうか。助けてあげられる能力があるのですから、手足をじっと縛っておくのではなく、動いて千回でも万回でも助けてあげたいと思われるでしょう。

 しかし、そのようにすれば、統一教会の文という人が行く運命的な道を解決できないために、そのような場で、神様は第三者の立場に立たざるを得なかったというのです。(48―120197195

 神様は、私たち自身を見てみるとき、愚かだからといって、低い立場に置きたいとは思われません。子女が愚かでも、父母の心は、いつも高いところに立てたいと思われるのです。

 世の中では、友達や、あるいは先生が弟子を見るとき、愚かであれば、愚かなものにふさわしい位置に立てたいと思うかもしれませんが、神様は、より高い位置に、貴い位置に立てたいと思われるのです。

 愚かな人は、神様が自分たちに対して少ししか心配していないと考えるかもしれませんが、神様は、愚かな人に対してもっと大きく心配されるということを、皆さんは知らなければなりません。(24―1601969727

 ※本文中、各文章の末尾にある( )内の数字は、原典『文鮮明先生み言選集』の巻数とそのページ、または、み言を語られた日付を示しています。
       例:(123456)=第123巻の456ページ、
          (200111)=200111


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