生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
生きた祭物となるために
原理大修練会終了の日のみ言 1967年6月30日
蕩減条件をなす者にとっては自由がないというんだね。祭物である。自分の存在意識を持つ者は祭物になれない。祭物になれるものは、自分の思うままに絶対できない。主人が引っ張り出して「祭壇に上がれ、そして血を流せ」と言ったら、そこに服従しなければならない。そこに反抗したらいけないというんだね。それはイサクみたいに。自分の生命の権限を持っているんだけれど、親に対してはそういう権限を持ったらいけない。だから存在意識を持ったらいけない。何かわかる?(「はい」)。そういうふうになっているよ。
心と体が今までこれは戦ってきた。天地の分別点を成したように、心は天、体は地のような関係にあったんだね。これを分けて、蕩減条件の血を流して神に捧げたんだけれど、我々は神とサタンが認める立場においては、今まで分かれて戦ったのを認めてやるんだから、一体となって死なずして神の方に捧げた祭物として、生きた祭物として捧げて、新しく神から生きものとして立たせるその実体物とならなければ、天国に立ちえる真の、天の子女になりえないというんだね。いわゆる祭物を越えて復活体となったものでなければ天国に入れないというんだね。復活したイエス様のように肉身を殺された、汚された肉身の立場で復活するのではなくして、そのままその自体が心身共に復活なしえたという基準を立たさなければ、天地共完成しえる地上天国に入れない。 わかる?(「はい」)。
だから死んだらいけない。死んだらいけない。もしも存在意識を持ったらサタンが打つよ。神が打つよりサタンが打つよ。そういう者は祭物になれない。だからイエス様に対してなぜ子羊に例えたか。子羊はね、毛を刈っても、あるいは首に庖丁で刺しても反抗しないというんだね。子羊は主人が殺す時に、「メーン」と一言声を出して死ぬんだね。それが普通の動物と違うというんだね。それは従順を象徴する。素直さを象徴する。そういうふうにして蕩減させたんだね。もしも、反対すればサタンの性質に同感するというんだね。サタンは何の主かというと、反対の主である。正義に対して反対の旗を立たして出たのがサタンだろう? 神に反対し、善に反対したものである。だからその祭物として、反対の要素が残っていれば祭物になれないというんだね。
子羊がイエス様を象徴したのは、神の、天の父の前には羊のように絶対反対意思がない。だからイエス様もゲッセマネの祈りの時に三回も祈りして、「神の御意の通りになし給え」とね。「自分の思い通りではなく、神の御意の通りになし給え」と三回も祈ったんだね。その従順なる、素直さを羊で象徴したんだね。だから存在意識を持ってはいけないというんだね。
また祭物は、自分を祭物として供えて罪を贖う者にとっては、ある階級以上の者が必要であって、それ以下の者はいらない、そうはいかないんだね。階級を超越し、誰の者にも素直になれるというんだね。惨めな者の祭物にもなるし、祭司長の祭物にもなる。そこには階級を超越しておる。なぜ階級を超越しなければならないか。心情的主人である神様に供えるものが、階級的意識があったら心情的立場に立つことができないというんだね。心情には階級がない。そうでしょう? だからそういう階級的意識があってはいけない。分別、我は誰を好きがるという。だから万民が自分の贖罪のためにいかなる方法をとって引っ張っていって罪を贖なってくれといえば、そこにいつでも応じえる立場に立てるというんだね。君たち可哀そうだろう。君たち、そうならなければならない。
我々はどういう立場かというと、祭物の立場である。霊界肉界共の捧げ物として立たなきゃならない。だから我々にとっては、「ああ、我は誰それだ、大学出身である。東大出身である。君たちに比べれば我が高いんじゃないか」、そういう基準を持ったらいけないんだね。
だから存在意識を持ってはいけない。階級意識を持ってはいけないというんだね。その大いなる責任を持った者がどういう立場に立つかというと、全体的祭物、祭壇にあがるというんだね。日本全国を代表する久保木会長は、日本を代表して祭壇に捧げる供え物である。そこにおいては存在意識がない、階級意識がない。みんなのためにやるんだ。可哀そうな者でも、高い者でも、あらゆる階級を超越して、みんなの贖罪のための捧げ物である。わかる?(「はい」)。存在意識を持ったらいけない。第二には階級意識を持ったらいけない。それができなかったならば、絶対神に捧げる供え物になれない。
そういう観点からちょっと批判してみよう、君たち。地方におかれている地区長さんは、堂々たる神の身代わりとして命令、「こら」。その教会に集まって来る人たちは何かというと、祭物によって贖われる者たちである。いわゆるその祭りをするために集まって来た者たちである。祭りにおいて何をするかというと、自分の罪を贖われるために集まって来た者である。だから贖罪してやらなければならない祭物たるその責任者は、彼らに対して命令する立場にあって、彼らを復活させる立場である。しかしその時、先に私を命令してくださいという立場に立たなければ、命令したら法にかかる。わかったか? イエス様は十二人の弟子たちに対して、完全に屈伏させて彼らの罪を贖い、そして救われたる感謝の心でもって永遠にその目標を、「我が一身を何千遍、死の境地に立たしても感謝致します。どうぞ主のみ意通りにやって下さい」というその告白を受けてから、命令することができるのであって、それまでは命令することができない。はっきりわかった?(「はい」)。
この伝統的立場を君たちが受けついで、その精神のもとに地方に行って働くとするならば、君たちの前には罪を贖われたその感謝の涙の絶えることがない様な立場に、どこへ行っても会うことが出来るでしょう。結論はそうだよ。「真の供え物として、我々の罪を贖って下さった地区長、責任者に感謝致します」と、いつもその前には頭が上がらない。何かわかる? わかる?(「はい」)。もし、これを誤ったら日本の発展に障害を来たす。
だから責任者たる者、高い大きい責任者であればあるほど、これは供え物である。大いなる万民のための供え物であるから、万民に我を通して神の恵沢を彼らに授けるような、その中間的使命をなさずして彼らに命令する事はできない。もしも彼らの罪が百という基準があった。その百を許した場合には九十以下は命令してもよろしい。しかし、百の罪があるにもかかわらず、十の罪も許してやらずして、十の罪も贖罪せずして二十の命令をしようとする者だったら、責任者も追いついて行く人も、共にサタンのものになっちゃうよ。わかる?(「はい」)。
祭物としては、昔はイエス様とか、あらゆる供え物は血を流して贖いの条件を立たしたんだけれど、我々は死ぬ境地まで接して血を流す覚悟をもって、その代わり、涙と汗を流す。血の身代わりとして。そうしないといけない。何を? 蕩減条件を立たせるには祭物は必ず裂く。二つに分けるのが鉄則であるが、いつやるか。その代わり心情を中心として、神の心情に立って、そして神の身代わりとして涙を流してやる。それがイエス様の立場であるんだね。そういう立場に立って君たちは涙を流し汗を流しながら、彼らの贖罪のために尽くしえる生きた祭物にならなければ、天国は造れない。わかる?(「はい」)。わかる?(「はい」)。
だからまず第一に祭物は存在意識を持たない。これをはっきりわかれば地方に行ってその責任者としての使命を完全に全うする事ができる。第二に階級意識を持たない。こういう観点から、今まで君たちが責任者となってきた立場を考えて見ると、君たちは謙遜であったか、傲慢であったかということのおいて、一体何点貰(もら)ったか。もしもこの通りやれば、君たちの前には涙ながらについて来る。そうならざるをえないだろう。その者に対して自分が救われる。その良心は善に従う。本心は神に従う。その基準は永遠に残っているから、その人は真なる供え物であるから、天地共に頭を下げなければならないものである。
先生のそういう生活の基準は生死の覚悟をもって、それを守っていこうという生活をやっているんだ。君たちは「先生来られまして、ありがとうございます」と。それはいい気にならないのだよ。その反対に頭を下げられる時には、彼らに心情的救いの御手を繋いでやるという使命がある。本心だったら涙ぐむような、そうだろう? そういう心でもってそれを迎えなければならない。そうなるというと、自分がいくらやっても、いくらやっても辛くないんだよ。いくらやってもまだ追いかけながらやりたい。誰が教えなくても心がそうなるというんだね。
親はそうするだんよ。子を愛する親は、自分はボロを着て粗食しながらも、子のためには祭物になれる。そこには報いとか感謝の念を求めない。存在の意識、階級意識を持たない、ある指導者達は腹の中から生みもしない、その子供に対して[オッ、君、孝行せよ」と命令したがる指導者たちがいるというんだね。それが原則に違反する。 君たちもそういう素質が濃厚だよ。濃厚!目玉を見ても、鼻先を見ても、耳の先を見ても、口先を見ても、いっぱいみなぎっているんだよ。わかる? 変わらないといけない。
だから、君たちは毎朝顔を洗う時には鏡を見るか見ないか、見るだろう? (「はい」)。きつい顔をした者は、できるんだったら微笑むんだよ。人相から再創造するんだよ。(笑い)。きつい顔した人はね、人に会う時にできるだけ心から笑い出すような表現をするんだよ。そうすると向こうから見る時に、きつい顔に見えないんだよ。心の化粧、本心より流れる化粧を成せというんだね。わかる?(「はい」)。手先でなす化粧じゃないよ、本心より成す化粧だ。自分の顔を時々見るときにはね、「なぜこういう形をしているのか、これがちょっと 入ったらいいんだけどね、誰よりも綺麗な顔をして」と思うんだ、心が綺麗になれば顔も綺麗になるよ。ほんとなんだよ。十年、三十年まで君たちの心が微笑むような心を持って、そうするとそれが習慣となって。その心に似たものが肉身だよ。だから、長くそういう伝統を作っていけば、その姿も変わっていくんだ。本当だよ。やってみな、今から。本当なんだよ。そういう研究をしなくてはならない。こういう祭物的責任者!使命を全うしてくれること願い今日話してあげました。これは実に重要であるよ。
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