生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
真の愛はだれもが願う(2)
1999年3月14日 ベルベディアにて
神様が宇宙をつくられた根本原理は、雄・雌の概念を通して具現化します。そして、この雄と雌が絶対的な愛を願うとすれば、その片方が複数であってはなりません。ただ一つ、絶対に一つでなければなりません。永遠に、絶対男性と絶対女性でなければなりません。ですから、神様は、アダムを二人つくったのでも、エバを二人つくったのでもありません。ただ一人ずつつくられたのです。
ところが、今日の世の中を見ると、義理の父が十人もいるケースを見ることができます。なんと偽りに満ち、ゴミ箱のような世の中なのでしょうか 「女性や男性が貞操を守り保護する」ことは、「宇宙を保護する」ことと同じです。男性と女性の愛の秩序が、宇宙の根本だからです。
ですから、これを動物のように乱用してはなりません。愛の主人は一つです。その中でも、真の愛の「真」は、二つを許すものではなく、ただ一つだけであり、絶対に一つなのです。「真の愛」とは、だれもが言える言葉ではありません。ただ神様だけが、本当に真の愛をなさることができ、真の愛の絶対主人になられるのです。
それゆえに、神様の真の生命も、神様の真の血統も、神様の真の良心も、真の愛が必要です。このように、神様の最も根本的な本質は、真の愛なのです。ですから、この真の愛と因縁を結ぶためには、神様と関係を結ばなければなりません。
自分たちの父母がけんかせずに、仲良く暮らしているからといって、それを真の愛と言うことはできません。恋愛する若い男女が、お互いに命を懸けて愛し合っているからといって、それが真の愛ではないのです。
神様が介在していないので、真の愛ではありません。真の愛は、必ず、神様を中心としなければなりません。神様の息子・娘になるには、神様の血統と生命と愛に関係しなければならないのです。
権力や知識やお金、軍事力だけでは、真の愛の世界では歓迎されません。真の愛はだれもが願うものですが、愛というものは相手のために尽くすことによってのみ可能である、という原則を知らなければなりません。相手のために奉仕し、犠牲になってあげなければならないのです。 「私に尽くせ」という心で人に対すれば、みな逃げてしまいます。このような利己的な個人主義は、サタンの戦略であり、目的であり、道具です。したがって、その結果は地獄しかありません。
全体のために生きなければなりません。人のために、全体のために、犠牲と奉仕をするようになれば、みんなから愛し慕われるようになるのです。神様の子女としてつくられた人間が、兄弟となり、夫婦となり、そして父母の位置に行く過程で、神様はいつも、そのすべての真の愛の主人になるのです。
すなわち、人間が成長するのを見守りながら、神様は、そのすべての段階において、愛の主人として臨まれるのです。それゆえ、神様をすべての愛の主人としてお迎えした人間こそが、神様よりも貴い存在だと考えることもできるのです。ちょうど、自分の愛する人を、自分より何千万倍も価値ある貴い存在と考えるようなものです。 ですから、さらに貴いもののために、神様は投入しては忘れ、また、投入しては忘れられるのです。一〇〇パーセント投入した後、一〇〇パーセントお忘れになるので、続いて、さらに投入なさることができるのです。
自分の夫が立派になることを願う妻は、夫のために投入しては忘れ、また、投入しては忘れることによって、夫を成功させるのと同じです。投入しては忘れることを続けると、その愛は段階が上がり、究極的には、神様の位置にまで連結されるのです。そして、神様と共に親子関係をなし、永生するようになるのです。
だれもが天国に行きたがりますが、「私に尽くせ」としか考えないなら、天国に行くことはできません。真の愛は、神様がつくられたすべての傑作品を抱いて奉仕するところから始まり、全世界人類のために、究極的には、神様のために奉仕することによって、天国に至らせるのです。
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