『文鮮明先生み言選集第五巻』
私の心は体に、「真実なものを探せ」と命令しています。「まず真の体を探せ」と命令しているのです。それで今日、世界人類は何か知らないうちに真のものを探してさまよっているのです。堕落による怨恨の中にしみているこの世界に生きているゆえに、何か知らないうちに真のものを探さなければならない、こういう運勢に巻き込まれていっています。
これからあなた方は、探さなければならない本然の私について考えてみると、喜ぶことができない自分であることを知らなければなりません。悲しみに置かれている自分であることを知らなければならないのです。ある世界を見て悲しがるのではありません。苦痛を感じても、ある相対的な世界での苦痛だけを感じてはなりません。
悲しみと苦痛を感じるなら、真の私を探していない悲しみ、真の私を探していない苦痛を感じなければならないのです。世の中に悲しみと苦痛がたくさんあるといっても、真の私を探せない悲しみと苦痛よりも大きい苦痛と悲しみはないというのです。
では、創造主であられる神様は誰を探し出そうとしていらっしゃいますか。神様は皆さん自体、すなわち「私」を探し出そうとしていらっしゃいます。それゆえ真の私が完全に決定されなければならないのです。そのようにできなければ、一つの実体を中心とした真の家庭や、その真の家庭を中心とした社会、国家、さらに国家を単位とした一世界、世界を単位とした一天宙とは縁を結ぶことができないのです。したがって完全な私になることが、あらゆる段階の第一基準になるのです。
神様は6000年間、人間に対して無限の悲しみの道を歩んでいらっしゃいます。愛する息子、娘をなくしたこの事実は、悔しさにおいてそれ以上悔しいことはないというのです。アダム・エバをなくすことによって、全天宙が暗黒の世界と化してしまったのです。それによって神様は、無限の苦痛と悲しみを感じていらっしゃるというのです。
すると今日、人間がなくした自分を探そうとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。なくした当時の神様の心情を回想しなければなりません。そうでなくては本然の私を探す道理がありません。なくした物は、なくしたその場所に行ってこそ捜すことができるように、なくした私を探すためには私をなくした時の神様の心情を回想しなければならないのです。そのような運動を提示しなくては、人間は本来の自らの姿を探すことができないというのです。
それで天は、私たち人間を6000年間探していらっしゃいます。すなわち、私の一個体を探すために6000年の歴史路程をたどってきたというのです。その6000年の歴史路程は血と涙の道であり、迫害の道であり、死の道でした。
このような路程を経てきながらも神様は私1人を探すために、6000年前エデンの園でアダムとエバをなくして流した悲しみの涙、苦痛の心情をなくさないまま闘ってこられました。6000年を1日のように、なくしたその時の心情で人間を探して闘ってこられました。こういう神様の心情を皆さんは知らなければならないのです。
悲しみが6000年前の神様の心情から始まったがゆえに、今日までの歴史は悲しみの歴史として残っていて、私たちには悲しみの実が生まれました。したがって、神様の心中にしみたその悲しみを解くまでは、今日の人類の悲しみは解消させることができないのです。
積もった曲折は、積もったその場に行って蕩減復帰しなければならないのです。これが救いの摂理の鉄則です。これが鉄則というなら、今日の私たち人間には私自身を探して立てるために、なくしたその心情を探さなければならない歴史的な終末時代、すなわち終わりの日が来るというのです。
では、終わりの日にはどのようになるのでしょうか。一つの心情の標準を定めておいて、その心情を基準として審判するようになるというのです。
今日皆さん自体を見る時、皆さんのすべてには6000年間流された神様の悲しみの涙の跡が染み付き、神様の苦痛の血の跡が染み付き、骨髄にまでも、悪に対する怨恨(えんこん)が染み付いているのを知らなければなりません。こういう怨恨の条件を取り除くための神様の悲しみと苦痛が、私の一身に染み付いているのです。
昔、エデンで追い出された人類始祖は、神様の心情を知らずに、自分を中心として悲しみました。ゆえに今は、私の体の悲しみと苦痛を忘れて、まず神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげなければならないのです。そういう私にならずには、歴史的な怨恨を解き、乗り越えていくことができないのです。
したがってこれから私自身が、6000年間流された神様の涙の結晶体であることを感じなければならないのです。そして私のすべては神様の涙の結晶体であるだけでなく、神様の苦痛の結晶体であることも悟らなければならないのです。