生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
短い肉身をもった生涯に
「真なる十字架の道」1970年7月3日
忠孝の源 初版P.516
真なる涙なくしては、多くの人たちに、真なる涙を流させることはできない。涙を流さないところには悔い改めが立たない。それをあんた達考えてみな。それを思えば「疲れた。足が疲れた」と思うよりも神の方がそれをもっとよく知っているよ。しかし神は疲れた者を頼っても、まだ命令するものが残っているんだよ。それを思う時、神に申しわけない、その疲れを忍びに忍んで神の命令はこれだと感じた時、夜通ししながらその通りやる。終えてそこに寝ころんで寝る時、神は抱(いだ)いてくれるよ。本当なんだよ。そういう時にはすばらしい因縁を感ずるようになるんだよ。
だから苦労というものは苦労そのものが悪いというんじゃないんだね。十字架が悪いんじゃない。真なる十字架の道は、真なる愛の道に直接通ずる。親は自分の子供を愛するんだからそれは十字架の道だよ。そうだろう。真なる十字架の道は真なる愛の道に通ずる。
短い肉身をもった生涯にどれだけ多くの人を愛したか?
それが自分の財産になるんだよ。財産になるんだ!そういう心情でもって何人を愛したか、高い者も、低い者も万民に対する全ての心情をもっていってこそ神の前に立つ資格がある。何もなしに神の前に立ったら「なぜ来た?」そういう質問をされる。神の前に立つ一時の為に我々は生涯をかけて、その一時の体面をたたせるために生涯をかけ歩まねばならない。そうなんだよ。先生その一時の自分の体面がどういう体面で神の前に立つか、恥しい体面か、それと万民が、喜ぶような、万民が讃(たた)えるような、神が喜びほほえむ顔つきでもって「御苦労さん」と言われる立場か。だから君達もそうだろう。結局は霊界に行くんだろう。結局は霊界に行かなければならないし、霊界に登録しなければならないんだよ。今は手続きの方法をとっているんだ。それを一生涯かけてやる。特に堕落した人間はそうだろう。神の前に手続きをしなければならない。報告の内容が一致して「ああ、これだ!」となったら合格。だからこの期間にあって、まだ手続きを終えていない者は休む暇がない。いくら周囲でガアガア言って反対しても行く道が忙しいっていうんだ。日が暮れる前に自分の目的地に着かなければならない。
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