生涯、真の父母様に侍り、天の摂理とみ旨のために歩まれた神山威先生が、2016年12月12日に聖和されました。「毎日わずかな時間でもいいので、み言を訓読してください」という先生の遺志を受け継ぎ、これまで通りみ言を配信してまいります。
神の戦法・サタンの戦法
メシヤと我々 1972年4月23日 『文鮮明先生御言選集55』
サタンの戦法は、打って滅びる戦法である。自分の利益のために人を犠牲にし、成功しようとする戦法である。神の戦法は、自分を犠牲にして打たれて勝利しようとする戦法をとっている。これはまるっきり違うんだね。
サタンの戦法はどうか、悪人の戦法はどうか? 悪人は自分のために他を足で踏みつけて、自分が成功しようとするものである。善人は奉仕してみんなを良くしようとする。そうすると、自動的にみんなを引き連れて入る。中心人物として立たせられるようになる。ここには、戦わずしてすべてが占領される道が生じてくる。だから神は早く良くしてやろうという戦法で、負けたことはありません。
過去の聖人たちは、打たれて歴史を経るにしたがってだんだん打った国の後孫が、打たれた者の僕になってしまうという結果になって、発展してきている。それが歴史の事実である。原則はこういうふうになっている。だから統一教会はこの戦法をとる。
例えば、2人の兄弟がいる。兄さんと弟さんがいる。満20歳の兄と10歳の弟がいる。
その場合に、親は兄さんに毎日相談をするんだね。しかし、そういう兄さんが何の罪も犯していないその弟に対してぶったならば、何の悪いこともしていないのに手をつけたならば、父母が兄さんを中心としていたすべては直ちに崩れてしまうのです。そして弟のほうを助ける。絶対的にそうである。なぜ弟をいじめるのか。何が悪いか。それに反発した場合には永遠に切られてしまう。
だから善悪はどこから始まるや? 先に被害を与えたところが悪である。いくらいいことを言っても、被害を与えた場合には悪に終わる。これをはっきり知らなければならない。悪くないのに、その国が攻められた場合には、攻めた国が攻められた者に支配される。その原則を、はっきり知らなければならない。統一教会の食口としてもいい人はいい人である。カイン・アベルである。被害の動機になった人、それはカインである。エデンの園において天使長はアダム・エバに被害を与えた。被害を先に被らせる者が悪である。それを治めるのが法律である。被害を与えた者が善か悪か? それは一般社会での悪、サタン世界の悪も通じるんだよ。
人を見るとしても、ほほえみながら気持ちいい姿をした人をみな見詰める。気持ち悪い人相をした場合には悪だ。だから向かい合う時には、必ずほほえみながら頭を下げる。これは恐ろしい戦法である。これが善悪の分かれ目である。
話をする時にも、謙遜な者と傲慢な者。一人は春に小鳥がさえずるように歌いながら、気持ちいい姿でもって話をする。一方は傲慢な姿でもって、ぷんぷん言う。見ただけで気持ち悪い。人間は笑顔でいつでも歌いたい。口を開ければ歌う。そういう気持ちを持った者に悪人はいません。
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